出自と初期の経歴
張遼は雁門郡馬邑県の出身で、若い頃から武勇に優れていました。元の姓は聶(じょう)でしたが、後に張姓を名乗るようになりました。
董卓の乱後は呂布に従い、各地を転戦しました。呂布配下では最も信頼される武将の一人として、数々の戦いで武功を立てました。特に濮陽の戦いでは、曹操軍相手に獅子奮迅の働きを見せています。
曹操への降伏と信頼の獲得
198年、下邳で呂布が曹操に敗れた際、張遼は潔く降伏しました。曹操は張遼の才能を高く評価し、中郎将に任命して厚遇しました。
この人物を失うは、千軍を失うに等しい— 曹操の張遼評
曹操配下となってからは、白馬の戦い、官渡の戦いなどに参加し、着実に戦功を重ねていきました。特に袁紹軍との戦いでは、その勇猛さと冷静な判断力で曹操軍の勝利に大きく貢献しました。
関羽との友情
200年、関羽が曹操に一時的に降った際、張遼は関羽と親交を深めました。二人は互いの武勇と人格を認め合い、深い友情で結ばれました。
合肥の戦い - 不朽の武勲
215年、孫権が10万の大軍を率いて合肥に攻め寄せました。この時、合肥の守備兵はわずか7000。張遼は楽進、李典と共に防衛にあたることになりました。
夜明けとともに、張遼は自ら先頭に立って呉軍の大営に突入しました。予想外の奇襲に呉軍は大混乱に陥り、張遼は敵陣深く切り込んで、孫権の本陣近くまで迫りました。
張遼だ!命が惜しくない者はかかってこい!— 張遼の叫び(『三国志』呉書)
- わずか800人で10万の大軍を撃退
- 孫権自身が危うく捕縛される寸前まで追い詰められた
- 呉軍の士気を完全に崩壊させ、撤退に追い込んだ
- 「遼来来(張遼が来るぞ)」が呉で子供の泣き止ませに使われるほどの威名
この戦いの勝利により、張遼の名は天下に轟きました。孫権も後に「あれほど恐ろしい武将は見たことがない」と語り、張遼の勇猛さを認めています。
戦術的な天才性
張遼の合肥での勝利は、単なる勇猛さだけでなく、優れた戦術眼によるものでした。敵の大軍に対して守勢に回れば士気が下がると判断し、あえて攻撃に出ることで主導権を握りました。
また、800人という少数精鋭で突撃したことで、機動力を最大限に活かし、敵の大軍の利点を無効化しました。この戦術は後世の兵法家たちに研究され、少数で大軍を破る戦術の模範とされています。
晩年の活躍
合肥の戦い以降も、張遼は魏の東部戦線の要として活躍を続けました。217年には再び孫権が合肥を攻めましたが、張遼の名を聞いただけで呉軍の士気は上がらず、早々に撤退しています。
220年、曹操が死去し曹丕が即位すると、張遼は前将軍に昇進しました。しかし、長年の戦いで体は疲弊しており、病がちになっていきました。
222年、病を押して江都に出陣しましたが、同年に病死しました。享年54歳。その死は魏にとって大きな損失となり、曹丕は深く悲しんだと伝えられています。
人物像と評価
張遼は勇猛でありながら、冷静な判断力を持ち、部下からの信頼も厚い理想的な武将でした。敵に対しては容赦なく、味方には温情深いという、武将としての理想像を体現していました。
- 勇猛果敢でありながら、無謀ではない冷静な判断力
- 主君への忠誠心と、それを裏切らない行動力
- 敵味方を問わず、優れた人物を認める度量の広さ
- 部下を大切にし、共に戦う姿勢
古の召虎も、張遼には及ばない— 曹丕の評価
陳寿は『三国志』で張遼を「江東の子供たちが張遼の名を聞けば泣き止む」と記し、その武威の大きさを伝えています。また、「合肥で威を振るい、功は最も大なり」と最大級の賛辞を送っています。
後世への影響と伝説
張遼は魏の五大将軍(張遼、楽進、于禁、張郃、徐晃)の筆頭として、後世に大きな影響を与えました。特に合肥の戦いは、中国戦史上最も有名な以少撃多(少数で多数を撃つ)の戦例の一つとなっています。
日本でも張遼は人気が高く、多くの創作作品で主要人物として描かれています。その清廉潔白な人格と、圧倒的な武勇は、時代を超えて人々を魅了し続けています。
張遼の生涯は、乱世において主君を転々としながらも、最終的に真の主君を見出し、その期待に完璧に応えた武将の理想像を示しています。知勇兼備、忠義に厚く、敵味方から尊敬される張遼は、三国志の英雄の中でも特に輝かしい存在として歴史に刻まれています。