初期の経歴
張郃は冀州河間国の出身で、黄巾の乱の際に韓馥の下で従軍し、その後袁紹に仕えた。武勇と智謀を兼ね備え、早くから注目される存在だった。
袁紹配下での活躍
袁紹の下で張郃は、高覧と共に最も信頼される武将の一人となった。公孫瓚との戦いでは先鋒を務め、その武勇を遺憾なく発揮した。
- 界橋の戦いで公孫瓚軍を撃破
- 易京攻略戦に参加
- 袁紹軍の主力部隊を指揮
官渡の戦いと曹操への降伏
200年の官渡の戦いは張郃の人生の転機となった。この戦いで袁紹軍は大敗を喫し、張郃は曹操に降伏することを決断した。
烏巣の戦い
張郃は烏巣の食糧庫が襲撃された際、曹操本陣を攻撃すべきと進言したが、郭図の讒言により採用されなかった。烏巣陥落後、責任を問われることを恐れ、高覧と共に曹操に降伏した。
曹操からの信任
曹操は張郃を偏将軍に任命し、都郷侯に封じた。以後、張郃は曹操の信頼を得て、重要な戦いに次々と投入された。
張郃の降伏は、微子の殷を去り、韓信の漢に帰するが如し
魏での軍功
曹操、曹丕、曹叡の三代に仕え、張郃は魏の重要な戦いのほとんどに参加し、その用兵の巧みさで多くの勝利に貢献した。
北方遠征
207年、曹操の烏桓遠征に従軍。柳城の戦いで戦功を挙げ、平狄将軍に昇進した。北方の異民族対策でも重要な役割を果たした。
- 烏桓族の鎮圧に成功
- 遼東の公孫氏との外交
- 北方防衛線の構築
漢中防衛戦
215年、張魯討伐に参加。219年の漢中攻防戦では、劉備軍と激戦を展開。定軍山の戦いでは夏侯淵の戦死後、軍を引き継いで撤退を成功させた。
五子良将としての地位
張郃は張遼、楽進、于禁、徐晃と共に「五子良将」と称され、魏の軍事を支える柱となった。その中でも張郃は最も長く活躍した。
太祖建茲武功、而時之良将、五子為先
軍事的才能
張郃の軍事的才能は、地形を読む能力と機動戦術にあった。陣地の選定、伏兵の配置、退却路の確保など、戦術面での貢献が大きかった。
- 地形を活かした防御戦術
- 迅速な機動による奇襲
- 堅実な陣地構築
- 的確な状況判断
諸葛亮との対決
張郃の最も有名な功績は、諸葛亮の北伐を防いだことである。特に街亭の戦いでの勝利は、第一次北伐を失敗に導いた決定的な戦いとなった。
街亭の戦い(228年)
228年、諸葛亮の第一次北伐において、張郃は街亭で馬謖と対峙。馬謖が山上に陣を敷いた失策を見抜き、水源を断って包囲し、蜀軍を大破した。
諸葛亮の為す所を識る者は張郃なり
諸葛亮からの評価
諸葛亮は張郃を「巴蜀の大患」と呼び、最も警戒すべき敵将として認識していた。その死を聞いた際、蜀軍は大いに喜んだという。
最期の戦い
231年、諸葛亮の第四次北伐において、張郃は司馬懿と共に防衛にあたった。蜀軍撤退の際の追撃戦で、木門道において戦死した。
木門道の戦い
司馬懿の命により蜀軍を追撃した張郃は、木門道の狭隘な地形で伏兵に遭遇。右膝に矢を受けて戦死した。享年不明だが、40年以上の軍歴を持つ老将だった。
死後の影響
張郃の死は魏にとって大きな損失となった。諸葛亮は最大の障害が取り除かれたと考え、以後の北伐をより積極的に展開した。
張郃は国の名将なり。今日これを失うは、朕の右腕を断つが如し
兵法と戦術思想
張郃は実戦経験から得た独自の戦術思想を持ち、それは「機を見て動き、地を得て戦う」という言葉に集約される。
戦術原則
- 地形の徹底的な把握と活用
- 補給線の確保を最優先
- 無理な追撃を避ける慎重さ
- 敵の弱点を見抜く洞察力
- 柔軟な戦術変更
張郃は「巧遅は拙速に如かず」という言葉を否定し、慎重な準備と確実な勝利を重視した。この思想は後の魏の軍事教範にも影響を与えた。
人物評価
張郃は三国時代を代表する名将の一人として、敵味方を問わず高く評価された。その軍事的才能と人格は、後世まで称賛されている。
同時代人の評価
- 曹操:「韓信の再来」と称賛
- 司馬懿:「用兵の妙を知る者」
- 諸葛亮:「巴蜀の大患」と警戒
- 曹叡:「国の柱石」と信頼
歴史的評価
陳寿は『三国志』で張郃を五子良将の一人として高く評価。裴松之も注釈で「用兵巧みにして、諸葛亮も憚る」と記している。