徐晃(じょこう) - 大斧の名将、関羽を破った智勇の将

徐晃(じょこう) - 大斧の名将、関羽を破った智勇の将

徐晃(じょこう、?-227年)は、後漢末期から三国時代にかけての武将。字は公明(こうめい)。元は楊奉配下の武将でしたが、曹操にその才能を認められて配下となり、魏の五大将軍の一人として活躍しました。特に樊城の戦い(219年)において、蜀の関羽を撃退した功績は高く評価されています。周亜夫の用兵を理想とし、軍規に厳格でありながら部下には慈愛深く、智勇兼備の名将として知られています。大斧を得意武器とし、その堅実な戦いぶりで数々の戦功を立て、曹操から「徐晃は周亜夫の風あり」と絶賛されました。

出自と初期の経歴

徐晃は河東郡楊県の出身で、若い頃から武勇に優れ、郡吏として仕えていました。その才能を認められ、楊奉の配下となりました。

史実: 『三国志』魏書によれば、徐晃は初め楊奉に従い、献帝を護衛して長安から洛陽への脱出に尽力しました。この功績により、都亭侯に封じられています。

196年、楊奉が曹操と対立すると、徐晃は満寵の説得を受けて曹操に帰順しました。曹操は徐晃の才能を高く評価し、すぐに重用することにしました。

曹操配下での活躍

曹操配下となった徐晃は、その堅実な戦いぶりで着実に戦功を重ねていきました。呂布討伐戦、袁術との戦い、袁紹との官渡の戦いなど、曹操の主要な戦いに参加し、常に期待以上の成果を挙げました。

  • 呂布討伐戦(198年):下邳攻略に参加
  • 官渡の戦い(200年):袁紹軍の補給線を断つ活躍
  • 白馬・延津の戦い:顔良・文醜討伐戦に参加
  • 鄴攻略戦(204年):袁尚軍を撃破
史実: 官渡の戦いでは、徐晃は史渙と共に袁紹軍の輸送隊を襲撃し、数千台の軍需物資を焼き払いました。この功績により、曹操から「このような忠臣がいれば、何を憂うことがあろうか」と称賛されました。

軍事哲学と用兵の特徴

徐晃は漢の名将・周亜夫を理想とし、その厳格な軍規と慎重な用兵を学びました。戦場では常に冷静沈着で、無謀な突撃よりも確実な勝利を重視しました。

良将は戦わずして勝つ。戦って勝つは次善なり— 徐晃の軍事思想

軍規には極めて厳格でしたが、部下には慈愛深く接し、将兵からの信頼は厚いものがありました。また、敵の降兵に対しても寛大で、多くの人材を曹操陣営に加えることに成功しています。

西方戦線での活躍

211年、馬超・韓遂らが反乱を起こすと、徐晃は曹操に従って西征しました。渭南の戦いでは、徐晃と朱霊が渭水の渡河作戦を成功させ、馬超軍の側面を脅かしました。

史実: 徐晃は夜間に密かに蒲阪津を渡り、敵の背後に陣を構えることに成功しました。この奇襲により馬超軍は挟み撃ちを恐れて撤退を余儀なくされ、曹操軍の勝利に大きく貢献しました。

その後も徐晃は西方で転戦し、隴右の平定、張魯討伐などで功績を挙げました。特に陽平関の攻略では、険峻な山道を踏破して敵の不意を突く戦術で勝利を収めています。

樊城の戦い - 関羽との対決

219年、関羽が樊城を包囲すると、曹仁は城に籠城して防戦しました。于禁の援軍が水没して全滅し、龐徳が戦死するという危機的状況の中、徐晃が新たな援軍として派遣されました。

史実: 徐晃は当初わずかな兵力しか持っていませんでしたが、慎重に陣を構えて関羽軍と対峙しました。曹操からの増援が到着すると、徐晃の軍勢は次第に増強され、反撃の機会をうかがいました。

徐晃は関羽の陣営の弱点を見抜き、偃城と四冢の陣を次々と攻略しました。関羽軍は動揺し、包囲を解いて撤退を始めました。

昔日の関羽ではない。今の関羽は驕り高ぶっている— 徐晃の関羽評
  • 慎重な陣地構築で関羽軍の攻撃を防ぐ
  • 増援到着まで時間を稼ぐ持久戦術
  • 関羽軍の補給線を脅かす機動戦
  • 偃城・四冢の連続攻略による圧力
  • 声東撃西の策で関羽を撹乱
演義: 『三国志演義』では徐晃と関羽が一騎討ちを行い、旧交を思い出す場面が描かれていますが、史実では両者の直接対決の記録はありません。

戦略的勝利の意義

徐晃の樊城での勝利は、単に関羽を撃退しただけでなく、魏の荊州防衛線を守り抜いたという戦略的に極めて重要な意味を持っていました。

曹操は徐晃の功績を高く評価し、「徐晃は周亜夫の風あり」と最大級の賛辞を送りました。これは徐晃の慎重かつ確実な用兵が、漢の名将周亜夫に匹敵すると認めたものでした。

史実: この戦いの後、徐晃は平南将軍に昇進し、食邑も大幅に増加されました。樊城の救援は徐晃の軍歴の中でも最大の功績となりました。

晩年と最期

220年、曹丕が即位すると、徐晃は右将軍に昇進し、逯郷侯に進封されました。新帝からの信頼も厚く、引き続き重要な軍事任務を任されました。

226年、曹叡が即位した後も、徐晃は老いてなお軍事の第一線で活躍しました。呉との国境防衛を任され、その経験と威名で敵を寄せ付けませんでした。

史実: 227年、徐晃は病死しました。壮侯と諡され、その功績は後世まで称えられました。子の徐蓋が後を継ぎましたが、父ほどの才能はなかったと伝えられています。

人物評価と軍事的特徴

徐晃は魏の五大将軍の一人として、その堅実な用兵と高い戦術眼で知られていました。派手さはないものの、確実に勝利を重ねる名将でした。

  • 慎重かつ確実な用兵で、無謀な戦いは避ける
  • 軍規に厳格だが、部下には慈愛深い
  • 周亜夫を理想とし、その兵法を実践
  • 大斧を得意武器とし、武勇にも優れる
  • 敵の弱点を見抜く優れた戦術眼
徐晃は性格清廉にして慎重、常に遠慮深く功を誇らず— 陳寿『三国志』

曹操は徐晃を「不敗の将」と評し、その慎重な用兵を高く評価していました。また、部下の将兵からも「公明将軍」と慕われ、その人格も称賛されていました。

歴史的意義と後世への影響

徐晃は華々しい一騎討ちや劇的な勝利よりも、堅実な戦術と確実な勝利を重視した将軍として、軍事史に独特の位置を占めています。

史実: 唐代に建立された武成王廟では、徐晃は歴代の名将六十四人の一人として祀られました。これは彼の軍事的功績が後世においても高く評価されていたことを示しています。

特に樊城の戦いでの勝利は、中国軍事史上の名勝負の一つとして記録されています。名高い関羽を正面から撃退したことは、徐晃の軍事的才能の高さを証明する出来事でした。

演義: 『三国志演義』では、徐晃は大斧を振るう豪傑として描かれ、関羽や許褚との一騎討ちなど、より武勇に優れた将軍として描写されています。しかし史実の徐晃は、武勇よりも智略を重視した将軍でした。

徐晃の生涯は、派手さはないが確実に任務を遂行し、主君の信頼に応え続けた理想的な職業軍人の姿を示しています。その堅実な生き方と確かな実績は、乱世を生き抜く一つの理想的なモデルとして、後世に大きな影響を与えました。