夏侯惇 - 隻眼の猛将、曹操の股肱の臣

夏侯惇 - 隻眼の猛将、曹操の股肱の臣

夏侯惇(?-220年)は、三国時代の魏の武将。曹操の従兄弟であり、挙兵当初から従った最古参の将軍。呂布との戦いで左眼を失い「盲夏侯」と呼ばれたが、その勇猛さは衰えず、曹操からは「古の名将」と評された。文武両道に優れ、曹操が最も信頼した将の一人として、生涯を通じて魏の基礎作りに貢献した。

出自と若年期

夏侯惇は曹操と同じく沛国譙県の出身で、曹操の従兄弟にあたる。夏侯氏と曹氏は代々姻戚関係にあり、密接な関係を持っていた。

史実: 14歳の時、師を侮辱した者を殺害した逸話が残る。この事件により、若い頃から義憤に駆られやすい激情的な性格だったことがわかる。

青年期の人格形成

夏侯惇は武芸に優れるだけでなく、学問にも励んだ。軍務の合間にも師を招いて講義を受け、文武両道を体現した。

性清倹、有余財輒以分施、不治産業

清廉潔白な性格で、余財があれば部下に分け与え、私財を蓄えることはなかった。この人柄により、多くの将兵から慕われた。

曹操への従軍

189年、曹操が兵を起こすと、夏侯惇は真っ先に参加。司馬として曹操を支え、初期の苦難の時代を共に乗り越えた。

初期の戦歴

董卓討伐の連合軍に参加し、その後も曹操の主要な戦いに参戦。黄巾賊討伐では先鋒を務め、武功を重ねた。

  • 190年:董卓討伐連合軍への参加
  • 192年:青州黄巾賊討伐
  • 193年:徐州での陶謙討伐戦

本拠地の守備

曹操が遠征に出る際、夏侯惇はしばしば本拠地の守備を任された。これは曹操が最も信頼する将軍だったことを示している。

史実: 194年、曹操が徐州遠征中に、陳宮と呂布が兗州で反乱。夏侯惇は鄄城を守り抜き、曹操の帰還まで拠点を確保した。

隻眼の将軍

夏侯惇の最も有名な逸話は、呂布軍との戦いで左眼を失った事件である。この出来事は彼の勇猛さを象徴するエピソードとなった。

左眼を失った戦い

197年頃、呂布配下の曹性との戦闘中、流れ矢が左眼に命中。夏侯惇は矢を眼球ごと引き抜いたという壮絶な逸話が残る。

父精母血、不可棄也
演義: 『演義』では、引き抜いた眼球を「父母からもらった体、捨てることはできない」と言って飲み込んだとされるが、これは後世の創作。正史では単に矢で左眼を負傷したとのみ記録されている。

負傷後の活躍

左眼を失った後も夏侯惇の武勇は衰えず、むしろ「盲夏侯」の異名で敵に恐れられた。隻眼となってもなお、曹操の重要な戦いに参加し続けた。

史実: 夏侯惇は鏡を見ることを嫌い、鏡を見るたびに地面に叩きつけて割ったという。これは容姿を気にする一面があったことを示している。

主要な軍事功績

夏侯惇は曹操の主要な戦役に参加し、特に防衛戦や治安維持で重要な役割を果たした。

博望坡の戦い

202年、劉備が新野に駐屯していた際、夏侯惇は討伐軍を率いて博望坡で交戦。この戦いで劉備軍に敗れた。

演義: 『演義』では諸葛亮の初陣として有名だが、実際にはこの時期諸葛亮はまだ劉備に仕えておらず、劉備自身の指揮による勝利だった。

内政での功績

夏侯惇は軍事だけでなく、内政面でも手腕を発揮。特に河南尹として、戦乱で荒廃した地域の復興に尽力した。

  • 河南尹として洛陽周辺を統治
  • 太寿陂・頴川陂の堤防工事を指揮
  • 水田開発による農業振興
  • 流民の定住化政策
史実: 夏侯惇は自ら鍬を持って堤防工事に参加し、将兵や民衆と共に汗を流した。この姿勢により民衆から大いに慕われた。

曹操との関係

夏侯惇と曹操の関係は、君臣を超えた深い絆で結ばれていた。曹操は夏侯惇を特別に遇し、他の将軍とは一線を画す待遇を与えた。

特別な待遇

曹操は魏王となった後も、夏侯惇には特別な配慮を示した。他の将軍と異なり、夏侯惇だけは曹操と同じ車に乗ることを許された。

諸将莫敢与同乗、惇独得乗輿車
  • 曹操の寝殿への自由な出入りを許可
  • 魏国の将軍ではなく漢の将軍として遇する
  • 「吾之子房」(私の張良)と称賛

忠誠と信頼

夏侯惇は曹操への絶対的な忠誠を貫いた。曹操もまた、最も困難な局面で夏侯惇を頼りにした。

史実: 220年、曹操が死去すると、夏侯惇は深い悲しみに暮れ、わずか数ヶ月後に後を追うように病死した。享年は不明だが、曹操とほぼ同年代と推定される。

人物像と性格

夏侯惇は勇猛な武将としてだけでなく、清廉潔白で部下思いの将軍として知られた。その人格は多くの人々に慕われた。

指導者としての資質

夏侯惇は部下と苦楽を共にし、決して特権を濫用しなかった。戦利品は公平に分配し、自身は質素な生活を送った。

  • 部下の功績を正当に評価
  • 負傷兵の見舞いを欠かさない
  • 戦死者の遺族を手厚く保護
  • 農繁期には兵士の帰郷を許可

文化的側面

夏侯惇は武人でありながら、学問を重視した。陣中でも学者を招いて講義を聞き、兵法書や歴史書を愛読した。

史実: 夏侯惇は「不学の将は勇があっても智がない」と述べ、配下の将校にも学問を奨励した。この姿勢は魏の文武両道の伝統に貢献した。

家族と子孫

夏侯惇の一族は魏において重要な地位を占め、多くの優秀な人材を輩出した。

主要な親族

  • 夏侯淵:従弟、西部戦線の名将
  • 夏侯充:長男、安平郷侯を継承
  • 夏侯楙:次男、安郷侯
  • 夏侯玄:従孫、魏末期の重臣

特に従弟の夏侯淵は、西部戦線で活躍した名将として知られ、夏侯惇と共に「夏侯双璧」と称された。

後世への影響

夏侯氏は魏・晋時代を通じて重要な軍事氏族として存続。夏侯惇の清廉潔白な精神は、一族の家訓として受け継がれた。

演義: 『三国志演義』では猛将として描かれるが、やや粗暴で短慮な人物像になっている。しかし正史では文武両道の名将として記録されている。

最期と死後の評価

220年、曹操が亡くなると、夏侯惇は深い悲しみに暮れた。主君の死からわずか数ヶ月後、夏侯惇も病に倒れ、後を追うように世を去った。

史実: 夏侯惇は死後「忠侯」と諡された。この諡号は、彼の生涯を通じた忠誠心を表している。曹丕は夏侯惇の功績を称え、その子孫を厚遇した。

後世の評価では、夏侯惇は魏の建国に貢献した功臣として、また清廉潔白な人格者として高く評価されている。隻眼の猛将という勇猛なイメージと、文武両道の教養人という側面を併せ持つ、三国志を代表する名将の一人である。