董卓とは - 後漢末期の暴君
董卓は、後漢末期の混乱期に現れた最も悪名高い人物の一人です。巨漢で怪力の持ち主だったと伝えられ、若い頃から武勇に優れていました。馬上で左右両方から弓を射ることができる特技を持ち、羌族との戦いでも勇名を馳せました。
西涼の武将から権力者への道
董卓は西涼の地で力を蓄え、中央政界の混乱に乗じて権力を掌握しました。その過程は計画的で、機を見るに敏な政治感覚を示しています。
辺境での功績
并州刺史として赴任した際には、黄巾の乱の残党討伐で功績を挙げ、その武名を中央にも知られるようになりました。しかし、この頃から既に略奪や暴行を繰り返しており、その残虐性の片鱗を見せていました。
黄巾の乱と十常侍の乱
189年、霊帝が崩御し、宦官の十常侍と外戚の何進が対立すると、何進は董卓を含む地方の有力武将を洛陽に召集しました。しかし、何進は宦官に暗殺され、その後の混乱の中で董卓は好機を逃さず洛陽に入城しました。
洛陽制圧と恐怖政治
権力を握った董卓は、想像を絶する暴政を始めました。その恐怖政治は後漢王朝の権威を完全に失墜させました。
少帝廃位と献帝擁立
189年9月、董卓は即位したばかりの少帝(劉弁)を廃位し、その弟の陳留王劉協を献帝として擁立しました。この皇帝廃立は、董卓の専横を象徴する出来事でした。
暴虐の限りを尽くす
気に入らない者は即座に処刑し、富豪の財産を没収して私腹を肥やしました。宴会の席で人を殺して余興とし、反対する官僚は容赦なく粛清しました。
洛陽炎上と長安遷都
190年、反董卓連合軍が結成されると、董卓は洛陽を放棄して長安への遷都を決定しました。その際、洛陽の宮殿や民家に火を放ち、歴代皇帝の陵墓を暴いて財宝を略奪しました。
反董卓連合軍との戦い
董卓の暴政に対し、全国の諸侯が決起して反董卓連合軍を結成しました。この連合軍は後の三国時代の主要人物たちが参加する歴史的な同盟でした。
諸侯の決起
190年、袁紹を盟主とする反董卓連合軍が結成されました。曹操、袁術、劉備、孫堅など、後の三国時代の主要人物たちが参加し、各地から董卓討伐の兵を挙げました。
虎牢関・汜水関の攻防
洛陽の東の要害である虎牢関と汜水関で、激しい攻防戦が繰り広げられました。董卓軍の華雄は汜水関で連合軍の将を次々と討ち取り、呂布は虎牢関で無類の強さを発揮しました。
王允の策略と悲惨な最期
長安に遷都した後も董卓の暴政は続きましたが、司徒の王允が巧妙な策略で董卓の最期を演出しました。
呂布との関係悪化
最も信頼していた養子の呂布との関係が徐々に悪化していきます。董卓は些細なことで激怒し、呂布に手戟を投げつけることもありました。
未央殿での暗殺
192年4月、王允は献帝の病気快癒を祝う名目で、董卓を未央殿に招きました。董卓は警戒していましたが、呂布が護衛として同行することで安心し、宮中へ向かいました。
死後の凄惨な扱い
董卓の死後、その遺体は市場に晒されました。董卓の肥満した体から流れ出た脂肪に火をつけると、数日間燃え続けたという逸話が残されています。
董卓の評価と歴史的意義
董卓は、中国史上でも稀に見る暴君として記憶されています。しかし、その出現と暴政は、後漢王朝の腐敗と衰退を象徴する出来事でもありました。
董卓の死後、群雄割拠の時代が本格化し、やがて魏・呉・蜀の三国時代へと続いていきます。その意味で、董卓は後漢から三国時代への転換期における、最も重要な人物の一人だったのです。