隆中対の歴史的背景

建安12年当時、曹操は官渡の戦いで袁紹を破り、北方をほぼ統一。孫権は江東に勢力を確立。劉備は新野に仮住まいする状況だった。

諸葛亮は隆中（現在の湖北省襄陽市）で隠棲していたが、天下の情勢を詳細に把握していた。彼は書物を通じて歴史を学び、友人との交流から最新の情報を得ていた。

曹操勢力の分析

諸葛亮は曹操について「挾天子以令諸侯」（天子を擁して諸侯に号令する）と評した。漢の献帝を擁する曹操は、名目上の正統性を持っていた。

• 軍事力: 百万と称される大軍を擁し、精鋭の騎兵部隊を保有
• 経済基盤: 黄河流域の豊かな農業地帯を支配
• 人材: 荀彧、郭嘉、程昱など優秀な謀臣・武将を多数擁する
• 政治的優位: 献帝を擁し、朝廷の名を借りて命令を発することが可能

しかし、諸葛亮は曹操の弱点も見抜いていた。急速な拡大による内部の不安定さ、南方での水戦の不得手、そして人心の完全な掌握には至っていないという点である。

孫権勢力の分析

孫権については「據有江東、已歷三世」（江東を拠点として三代にわたる）と評価。孫堅、孫策から続く基盤は安定していた。

• 地理的優位: 長江の天険を活かした防御体制
• 水軍力: 優秀な水軍と造船技術を保有
• 経済力: 江南の豊かな経済力と商業の発達
• 人材: 周瑜、魯粛、呂蒙など文武両道の人材

諸葛亮は孫権を「可與為援而不可圖也」（援助を求めることはできるが、併呑を図ることはできない）と判断。同盟相手として最適と結論づけた。

劉備の強みと弱み

諸葛亮は劉備の置かれた状況を冷静に分析した上で、潜在的な強みを見出していた。

• 漢室の宗親: 中山靖王劉勝の末裔として正統性を主張できる
• 仁義の名声: 民衆からの信望と人材を引きつける人徳
• 軍事的才能: 関羽、張飛という勇将を擁する
• 柔軟性: 固定の領土を持たないため、機動的に行動可能

一方で、固定の領土を持たず、兵力も少ないという弱点があった。諸葛亮の戦略は、これらの弱点を補い、強みを最大限に活かすものだった。

荊州戦略の重要性

荊州は「用武之地」として、天下三分の計の要となる地域だった。

• 戦略的位置: 南北東西への進出が可能な交通の要衝
• 経済力: 豊かな農業生産と長江の水運による商業
• 人材の宝庫: 多くの知識人と武将が集まる文化的中心地
• 軍事的価値: 水陸両面での作戦展開が可能

益州併合の戦略的意義

益州は「天府之国」と呼ばれ、天然の要害と豊かな資源を併せ持つ理想的な根拠地だった。

• 地理的優位: 四方を山に囲まれた天然の要塞
• 豊富な資源: 肥沃な成都平原による食糧自給
• 人口: 100万戸を超える人口による兵力と税収
• 独立性: 中原から離れ、独自の発展が可能

劉璋の統治は弱体化しており、諸葛亮は「智能之士思得明君」（知恵ある者は明君を求めている）と、益州併合の可能性を示唆した。

孫劉同盟の戦略構想

孫権との同盟は、曹操に対抗する上で不可欠な要素だった。

諸葛亮は「結好孫権」（孫権と友好を結ぶ）を強調。単なる一時的な協力ではなく、長期的な同盟関係の構築を目指した。

• 軍事的協力: 曹操を南北から挟撃する態勢
• 経済的補完: 蜀の農産物と呉の商業力の交流
• 外交的効果: 二大勢力の同盟による曹操への圧力
• 情報共有: 曹操の動向に関する情報交換

赤壁の戦い（208年）

建安13年、曹操が南下してきた際、諸葛亮は単身呉に赴き、孫権と同盟を結んだ。

赤壁の戦い後、劉備は荊州南部四郡（武陵、長沙、桂陽、零陵）を占領。さらに周瑜の死後、魯粛の仲介により荊州の南郡も借り受けることに成功した。

益州平定（211-214年）

建安16年、劉璋の招きに応じて益州に入った劉備は、3年をかけて益州を平定した。

諸葛亮は荊州に留まり後方支援を担当。龐統が劉備に随行したが、雒城攻略で戦死。その後、諸葛亮が援軍を率いて益州に入り、成都包囲に参加した。

漢中攻略（217-219年）

建安22年から24年にかけて、劉備は曹操から漢中を奪取した。

定軍山の戦いで黄忠が夏侯淵を討ち取り、曹操自ら出陣したが、劉備は守りを固めて撤退に追い込んだ。漢中王となった劉備は、蜀漢建国への道を開いた。

今、漢中を得たことは、益州の咽喉を扼したようなもの。これにより蜀の安全が保たれる。— 楊洪（蜀の官吏）

荊州失陥（219年）

建安24年、関羽は北伐を開始し、樊城を包囲。于禁の七軍を水没させ、曹操を震撼させた。

荊州を失ったことで、蜀は東への出口を失い、北伐の拠点も失った。また、孫権との同盟も破綻し、戦略の根本的な見直しが必要となった。

夷陵の敗戦（222年）

章武元年（221年）、劉備は関羽の仇を討つため、諸葛亮の反対を押し切って呉に出兵した。

陸遜の火攻めにより蜀軍は壊滅的な敗北を喫した。劉備は白帝城に逃れ、翌年病死。蜀の国力は大きく損なわれた。

戦略の修正と継承

劉備の死後、諸葛亮は戦略を修正しつつ、天下統一の理想を追求し続けた。

呉との同盟を回復し、南征で後方を安定させた後、北伐を開始。荊州を失った状況下で、祁山道を通じた北伐という新たな戦略を採用した。

先帝の志を継ぎ、漢室を再興することこそ、臣の使命である。— 諸葛亮（出師表）

戦略の成功点

• 三国鼎立の実現: 弱小勢力から三国の一角を占める勢力への成長
• 蜀漢の建国: 正統性を主張できる王朝の樹立
• 40年の独立維持: 圧倒的な国力差にも関わらず長期間の独立を維持
• 人材育成: 姜維など次世代の人材を育成

特に、人口・経済力で劣る蜀が、魏・呉と並ぶ存在となったことは、諸葛亮の戦略の妥当性を証明している。

戦略の限界と課題

天下三分の計には、いくつかの構造的な限界があった。

• 国力の格差: 魏との人口・経済力の差は最後まで埋まらなかった
• 地理的制約: 蜀の地形は防御に適するが、攻勢には不利
• 同盟の脆弱性: 呉との同盟は利害関係に基づき、常に不安定
• 人材不足: 「蜀中無大将」と言われた後期の人材枯渇

これらの限界は、諸葛亮の戦略の問題というより、客観的な条件の制約によるものだった。

軍事理論への貢献

天下三分の計は、弱者の戦略として軍事理論に大きな影響を与えた。

• 勢力均衡論: 三つ巴の均衡による安定の追求
• 同盟戦略: 共通の敵に対する協力関係の構築
• 地政学的思考: 地理的条件を最大限に活用する戦略
• 長期戦略: 段階的な目標設定と実行

特に、「以弱制強」（弱をもって強を制す）の思想は、後世の多くの戦略家に影響を与えた。

文化的影響

三国志演義により、天下三分の計は民間に広く知られることとなった。

京劇や評書など、様々な芸術形式で天下三分の計は取り上げられ、中国文化の重要な一部となっている。

現代への示唆

天下三分の計の思考法は、現代のビジネスや国際関係にも応用可能である。

• SWOT分析: 自己と敵対勢力の強み・弱みの客観的分析
• ブルーオーシャン戦略: 競争の激しい市場を避け、新たな領域を開拓
• アライアンス戦略: 戦略的提携による競争優位の確立
• 段階的成長戦略: リソースに応じた現実的な目標設定

諸葛亮の冷静な情勢分析と長期的視野は、時代を超えて価値を持ち続けている。

戦国時代の合従連衡との比較

戦国時代の合従連衡は、秦に対抗するため六国が連合する戦略だった。

天下三分の計との共通点は、弱者連合による強者への対抗という点。しかし、合従は一時的な軍事同盟に留まったのに対し、天下三分の計は領土分割を含む長期戦略だった点が異なる。

楚漢争覇期の戦略との比較

劉邦と項羽の楚漢争覇は、二大勢力による天下争奪戦だった。

張良、蕭何、韓信の戦略は、項羽の軍事的優位に対し、政治・外交・後方支援で対抗するものだった。諸葛亮の天下三分の計も、軍事力の劣勢を他の要素で補う点で共通している。

ただし、楚漢争覇が二極対立だったのに対し、天下三分の計は三極構造を目指した点が革新的だった。

諸葛亮 - 戦略の立案者

諸葛亮（181-234年）、字は孔明。琅邪陽都（現在の山東省）の出身だが、荊州に移住。

若くして両親を失い、叔父の諸葛玄に養われた。隆中で晴耕雨読の生活を送りながら、天下の情勢を研究。「臥龍」と呼ばれ、その才能は広く知られていた。

淡泊明志、寧静致遠（淡泊にして志を明らかにし、寧静にして遠きを致す）— 諸葛亮の座右の銘

諸葛亮の知識は、経書、史書、兵法書など幅広い分野に及んだ。特に管仲、楽毅を尊敬し、彼らの政治・軍事思想から多くを学んだ。

劉備 - 戦略の実行者

劉備（161-223年）、字は玄徳。涿郡涿県（現在の河北省）の出身。

黄巾の乱で義兵を起こして以来、各地を転戦。公孫瓚、陶謙、曹操、袁紹、劉表と、多くの群雄の下を渡り歩いた。この経験が、諸葛亮の戦略を理解し実行する素地となった。

戦略を支えた人物たち

天下三分の計の実現には、多くの優秀な人材が貢献した。

• 関羽: 荊州を守備し、北伐を実行。その勇猛さは魏を震撼させた
• 張飛: 益州攻略で活躍。巴西の戦いで張郃を破る
• 趙雲: 長坂の戦いで劉備の子を救出。諸葛亮の北伐でも活躍
• 龐統: 諸葛亮と並び称される軍師。益州攻略を進言
• 法正: 益州の内応者として劉備を招聘。漢中攻略の立案者
• 馬超: 西涼の勇将。劉備陣営に加わり益州平定に貢献
• 黄忠: 定軍山で夏侯淵を討ち取り、漢中攻略の突破口を開く

準備期（200-207年）

• 200年: 官渡の戦い。曹操が袁紹を破り北方の覇者となる
• 201年: 劉備が劉表の元に身を寄せる
• 207年春: 劉備が初めて諸葛亮を訪問（一顧）
• 207年夏: 劉備が二度目の訪問（二顧）
• 207年冬: 劉備が三度目の訪問で諸葛亮と会見（三顧の礼）

初期実行期（208-214年）

• 208年: 赤壁の戦い。孫劉連合軍が曹操を破る
• 209年: 劉備が荊州南部四郡を占領
• 210年: 周瑜死去。魯粛の仲介で南郡を借り受ける
• 211年: 劉備が劉璋の招きで益州入り
• 212年: 劉備と劉璋が決裂。益州攻略開始
• 214年: 成都陥落。劉備が益州を統一

最盛期（215-219年）

• 215年: 孫権が荊州返還を要求。湘水の盟約で妥協
• 217年: 劉備が漢中攻略を開始
• 219年春: 定軍山の戦い。黄忠が夏侯淵を討つ
• 219年夏: 劉備が漢中王に即位
• 219年秋: 関羽が樊城を包囲。于禁を降伏させる
• 219年冬: 呂蒙が荊州を奇襲。関羽敗死

転換期（220-234年）

• 220年: 曹丕が魏を建国
• 221年: 劉備が蜀漢を建国。呉征伐を開始
• 222年: 夷陵の戦い。陸遜に大敗
• 223年: 劉備が白帝城で死去。劉禅即位
• 225年: 諸葛亮が南征を完了
• 227年: 第一次北伐開始
• 234年: 諸葛亮が五丈原で病死

荊州の地理的重要性

荊州は長江中流域に位置し、九州の中心とも言える要地だった。

北は宛・洛陽に通じ、東は江東に接し、南は交州・広州に至り、西は益州への門戸となる。まさに四通八達の地であり、「用武之地」と呼ばれた所以である。

• 襄陽: 荊州の政治・軍事の中心。漢水と長江の合流点を押さえる
• 江陵: 長江の要衝。水軍の根拠地として最適
• 武陵・長沙: 南方への進出拠点。少数民族との交易も盛ん
• 南陽: 中原への出口。宛城を含む豊かな農業地帯

益州の地理的特性

益州は四川盆地を中心とし、周囲を険しい山々に囲まれた天然の要塞だった。

「蜀道の険」として知られる困難な交通路は、外敵の侵入を防ぐ一方、内部の豊かな資源を保護した。成都平原は「天府之国」と呼ばれ、灌漑施設により安定した農業生産が可能だった。

• 剣閣: 蜀への北の入口。「一夫関に当たれば万夫も開くなし」
• 成都: 益州の中心。人口密集地で経済も発達
• 漢中: 益州の咽喉。中原への出撃拠点
• 永安: 長江上流の要衝。呉への備え

農業生産の強化

諸葛亮は農業を国の根本と位置づけ、様々な施策を実施した。

• 屯田制: 兵士による農業生産で食糧自給を実現
• 水利事業: 都江堰の修復など灌漑施設の整備
• 農具改良: 諸葛亮自ら農具を発明・改良
• 税制改革: 公平な税制により農民の生産意欲を向上

商工業の振興

益州の豊富な資源を活用し、商工業を発展させた。

• 蜀錦: 高品質の絹織物。重要な輸出品として外貨獲得
• 製塩業: 井塩の生産により塩の自給を実現
• 製鉄業: 優良な鉄鉱石を利用した武器生産
• 造幣: 直百五銖銭の鋳造により通貨制度を確立

諸葛亮の軍制改革

諸葛亮は蜀の軍事力を強化するため、様々な改革を実施した。

• 八陣図: 複雑な陣形変化により少数で多数に対抗
• 木牛流馬: 山岳地帯での補給問題を解決する輸送器具
• 連弩: 連射可能な弩により火力を増強
• 軍律の厳格化: 賞罰を明確にし、軍紀を維持

戦略兵器の開発

地形的不利を補うため、様々な兵器を開発・改良した。

ビジネス戦略への応用

天下三分の計の考え方は、現代のビジネス戦略にも応用できる。

• 市場分析: 競合他社の強み・弱みを客観的に分析
• ニッチ戦略: 大企業が手を出しにくい分野で基盤を築く
• 戦略的提携: Win-Winの関係を構築して競争力を高める
• 段階的成長: 無理な拡大を避け、着実に力を蓄える

国際関係への示唆

三極構造による均衡の思想は、国際政治にも通じる。

冷戦期の米ソ中の三極構造、現代の多極化する世界秩序など、天下三分の計の均衡論は現代でも有効な分析枠組みを提供している。