司馬懿 - 臥薪嘗胆の大軍師、晋王朝の礎

司馬懿 - 臥薪嘗胆の大軍師、晋王朝の礎

司馬懿(179年-251年)は、三国時代後期の魏の政治家・軍事指導者。曹操・曹丕・曹叡・曹芳の四代に仕え、諸葛亮との北伐防衛戦で名を馳せた。晩年にはクーデターで魏の実権を掌握し、孫の司馬炎が晋を建国する基礎を築いた。忍耐強く機を待つ「臥薪嘗胆」の代名詞として知られ、その深謀遠慮は後世の権謀術数の手本となった。

出自と初期の経歴

司馬懿は名門司馬氏の出身で、八人兄弟の次男として生まれた。司馬八達と称された兄弟は皆優秀で、特に司馬懿は幼少の頃から聡明さで知られていた。

史実: 司馬氏は代々河内郡の名門として知られ、司馬懿の父・司馬防は京兆尹を務めた。司馬懿は若い頃から『易経』や兵法に通じ、その才能は早くから注目されていた。

曹操への出仕

208年、曹操が司馬懿を召し出そうとしたが、司馬懿は病気を装って応じなかった。しかし曹操は強制的に出仕させ、文学掾として取り立てた。

此れ非常の人にして、臣の制する所に非ず
演義: 『三国志演義』では、曹操が死の床で曹丕に「司馬懿は狼顧の相があり、いずれ曹氏の脅威となる」と警告したとされるが、これは後世の創作である。

魏での台頭

曹丕の時代になると、司馬懿は太子中庶子として曹丕を補佐し、その信任を得た。曹丕の即位後は重用され、軍事・政治両面で活躍した。

曹丕時代の功績

220年、曹丕が魏を建国すると、司馬懿は尚書として内政に参画。呉・蜀への戦略立案にも関わり、その見識の高さを示した。

  • 孟達の降伏工作に成功
  • 呉との外交戦略を立案
  • 内政改革への貢献

曹叡の信任

226年、曹叡が即位すると、司馬懿は驃騎将軍に任命され、軍事の最高責任者の一人となった。特に対蜀戦線の総指揮を任された。

史実: 曹叡は死の際、司馬懿と曹爽に幼帝曹芳の後見を託した。この時の詔書には「司馬懿は三朝の老臣であり、朕が最も信頼する者である」と記されている。

諸葛亮との対決

228年から234年にかけて、司馬懿は蜀の諸葛亮による北伐を防ぐ最前線の指揮官となった。両者の知略を尽くした戦いは、三国志の名場面として語り継がれている。

堅守の戦略

司馬懿は諸葛亮の挑発に乗らず、堅守の姿勢を貫いた。この戦略は「千日持久」と呼ばれ、蜀軍の補給線の長さを突いた巧妙な作戦だった。

亮は志大にして謀寡し、兵を用いること巧みなれども、決断に乏し
演義: 『演義』では諸葛亮から女性の服を送られて挑発される場面があるが、これは創作。実際には司馬懿は冷静に持久戦を続けた。

五丈原の対陣

234年、五丈原で諸葛亮と最後の対陣。諸葛亮が病死すると、蜀軍は撤退。司馬懿は追撃せず、「死せる孔明、生ける仲達を走らす」という故事を生んだ。

史実: 諸葛亮の死後、司馬懿は敵陣を視察し、「天下の奇才なり」と評した。敵ながら諸葛亮の才能を認めていたことがわかる。

魏での権力闘争

諸葛亮の死後、司馬懿は魏の内政に専念。しかし、曹爽一派との権力闘争に巻き込まれ、一時は失脚の危機に直面した。

曹爽との対立

239年、曹叡が崩御し、幼帝曹芳が即位。司馬懿は曹爽と共に摂政となったが、曹爽は次第に権力を独占し、司馬懿を排除しようとした。

  • 曹爽による軍権の掌握
  • 司馬懿の太傅への昇進(実権のない名誉職)
  • 司馬一族への圧力強化

病気を装う

司馬懿は病気を装って隠居状態となり、曹爽一派の警戒心を解いた。使者の前では耳が遠く、よぼよぼの老人を演じ切った。

史実: 李勝が見舞いに訪れた際、司馬懿は粥をこぼし、言葉も不明瞭に話した。李勝は司馬懿が完全に耄碌したと曹爽に報告した。

高平陵の変

249年正月、司馬懿は電撃的なクーデターを決行。曹爽一派を一掃し、魏の実権を完全に掌握した。

クーデターの実行

曹爽が曹芳と共に高平陵に参拝に出かけた隙を突き、司馬懿は洛陽を制圧。太后の詔を得て、曹爽を弾劾した。

  • 洛陽の城門を封鎖
  • 武器庫と宮殿を占拠
  • 曹爽派の官吏を拘束
  • 太后の支持を取り付け
史実: 司馬懿は曹爽に対し、官職を辞すれば命は保証すると約束したが、結局は三族皆殺しにした。これにより司馬氏への恐怖が広がった。

クーデター後の統治

高平陵の変後、司馬懿は丞相・太尉として軍政を掌握。反対派を粛清しつつ、有能な人材を登用して統治体制を固めた。

演義: 『演義』では司馬懿が皇位簒奪を狙った野心家として描かれるが、実際には死ぬまで魏の臣下として振る舞った。

統治手法と人材育成

司馬懿は権力を掌握した後も、表向きは謙虚な態度を保ち、有能な人材の育成に努めた。その統治手法は後の晋王朝の基礎となった。

人材の登用

司馬懿は門閥にこだわらず、実力主義で人材を登用。鍾会、鄧艾、王基など、後の晋の建国に貢献する人材を育成した。

  • 鍾会:後に蜀討伐の主将
  • 鄧艾:蜀を滅ぼした名将
  • 王基:呉との戦いで活躍
  • 陳泰:対蜀防衛の要

司馬一族の基盤作り

司馬懿は息子たちにも要職を与え、司馬氏の権力基盤を固めた。長男の司馬師、次男の司馬昭は父の路線を継承した。

史実: 司馬師は大将軍、司馬昭は大将軍・相国を歴任。司馬昭の子・司馬炎が265年に晋を建国し、司馬懿は「宣帝」と追尊された。

人物像と評価

司馬懿は複雑な人物像を持つ。深謀遠慮の策略家である一方、忍耐強く機を待つ慎重さも併せ持っていた。

戦略的思考

司馬懿の最大の強みは、長期的視野に立った戦略思考だった。目先の勝利より最終的な勝利を重視する姿勢は、諸葛亮との戦いで遺憾なく発揮された。

将在外、君命有所不受

議論を呼ぶ遺産

司馬懿は魏への忠誠を誓いながら、結果的に司馬氏による晋建国の道を開いた。この二面性は後世の評価を分けている。

  • 肯定的評価:乱世を終わらせた英雄
  • 否定的評価:主家を裏切った簒奪者
  • 中立的評価:時代の要請に応じた実務家
演義: 明代の『三国志演義』では悪役として描かれたが、現代では諸葛亮に匹敵する戦略家として再評価されている。

最期と継承

251年、司馬懿は73歳で病没。死の直前まで政務を執り、息子たちに遺言を残した。

史実: 司馬懿は死の床で「人臣の節を失うことなかれ」と遺言したが、皮肉にも息子たちは魏を滅ぼし晋を建国した。

司馬師、司馬昭が相次いで魏の実権を握り、265年に司馬炎(武帝)が晋を建国。司馬懿は「宣帝」として追尊され、晋王朝の始祖となった。