出自と初期の経歴
司馬懿は名門司馬氏の出身で、八人兄弟の次男として生まれた。司馬八達と称された兄弟は皆優秀で、特に司馬懿は幼少の頃から聡明さで知られていた。
曹操への出仕
208年、曹操が司馬懿を召し出そうとしたが、司馬懿は病気を装って応じなかった。しかし曹操は強制的に出仕させ、文学掾として取り立てた。
此れ非常の人にして、臣の制する所に非ず
魏での台頭
曹丕の時代になると、司馬懿は太子中庶子として曹丕を補佐し、その信任を得た。曹丕の即位後は重用され、軍事・政治両面で活躍した。
曹丕時代の功績
220年、曹丕が魏を建国すると、司馬懿は尚書として内政に参画。呉・蜀への戦略立案にも関わり、その見識の高さを示した。
- 孟達の降伏工作に成功
- 呉との外交戦略を立案
- 内政改革への貢献
曹叡の信任
226年、曹叡が即位すると、司馬懿は驃騎将軍に任命され、軍事の最高責任者の一人となった。特に対蜀戦線の総指揮を任された。
諸葛亮との対決
228年から234年にかけて、司馬懿は蜀の諸葛亮による北伐を防ぐ最前線の指揮官となった。両者の知略を尽くした戦いは、三国志の名場面として語り継がれている。
堅守の戦略
司馬懿は諸葛亮の挑発に乗らず、堅守の姿勢を貫いた。この戦略は「千日持久」と呼ばれ、蜀軍の補給線の長さを突いた巧妙な作戦だった。
亮は志大にして謀寡し、兵を用いること巧みなれども、決断に乏し
五丈原の対陣
234年、五丈原で諸葛亮と最後の対陣。諸葛亮が病死すると、蜀軍は撤退。司馬懿は追撃せず、「死せる孔明、生ける仲達を走らす」という故事を生んだ。
魏での権力闘争
諸葛亮の死後、司馬懿は魏の内政に専念。しかし、曹爽一派との権力闘争に巻き込まれ、一時は失脚の危機に直面した。
曹爽との対立
239年、曹叡が崩御し、幼帝曹芳が即位。司馬懿は曹爽と共に摂政となったが、曹爽は次第に権力を独占し、司馬懿を排除しようとした。
- 曹爽による軍権の掌握
- 司馬懿の太傅への昇進(実権のない名誉職)
- 司馬一族への圧力強化
病気を装う
司馬懿は病気を装って隠居状態となり、曹爽一派の警戒心を解いた。使者の前では耳が遠く、よぼよぼの老人を演じ切った。
高平陵の変
249年正月、司馬懿は電撃的なクーデターを決行。曹爽一派を一掃し、魏の実権を完全に掌握した。
クーデターの実行
曹爽が曹芳と共に高平陵に参拝に出かけた隙を突き、司馬懿は洛陽を制圧。太后の詔を得て、曹爽を弾劾した。
- 洛陽の城門を封鎖
- 武器庫と宮殿を占拠
- 曹爽派の官吏を拘束
- 太后の支持を取り付け
クーデター後の統治
高平陵の変後、司馬懿は丞相・太尉として軍政を掌握。反対派を粛清しつつ、有能な人材を登用して統治体制を固めた。
統治手法と人材育成
司馬懿は権力を掌握した後も、表向きは謙虚な態度を保ち、有能な人材の育成に努めた。その統治手法は後の晋王朝の基礎となった。
人材の登用
司馬懿は門閥にこだわらず、実力主義で人材を登用。鍾会、鄧艾、王基など、後の晋の建国に貢献する人材を育成した。
- 鍾会:後に蜀討伐の主将
- 鄧艾:蜀を滅ぼした名将
- 王基:呉との戦いで活躍
- 陳泰:対蜀防衛の要
司馬一族の基盤作り
司馬懿は息子たちにも要職を与え、司馬氏の権力基盤を固めた。長男の司馬師、次男の司馬昭は父の路線を継承した。
人物像と評価
司馬懿は複雑な人物像を持つ。深謀遠慮の策略家である一方、忍耐強く機を待つ慎重さも併せ持っていた。
戦略的思考
司馬懿の最大の強みは、長期的視野に立った戦略思考だった。目先の勝利より最終的な勝利を重視する姿勢は、諸葛亮との戦いで遺憾なく発揮された。
将在外、君命有所不受
議論を呼ぶ遺産
司馬懿は魏への忠誠を誓いながら、結果的に司馬氏による晋建国の道を開いた。この二面性は後世の評価を分けている。
- 肯定的評価:乱世を終わらせた英雄
- 否定的評価:主家を裏切った簒奪者
- 中立的評価:時代の要請に応じた実務家
最期と継承
251年、司馬懿は73歳で病没。死の直前まで政務を執り、息子たちに遺言を残した。
司馬師、司馬昭が相次いで魏の実権を握り、265年に司馬炎(武帝)が晋を建国。司馬懿は「宣帝」として追尊され、晋王朝の始祖となった。