孫策との出会いと初期の活躍
周泰は同郷の蔣欽とともに、若い頃から長江で活動していました。孫策が江東平定を進めていた時期、二人は孫策の度量と武勇に感服し、その配下となることを決意しました。
孫策に仕えた周泰は、その勇猛さですぐに頭角を現しました。各地の戦いで先陣を切って敵陣に突入し、数多くの武功を立てました。孫策は周泰の武勇を高く評価し、別部司馬に任命して独立した部隊を率いさせました。
孫権との出会いと宣城の戦い
孫策の弟である孫権は、兄の留守中に宣城を守備していましたが、まだ若く経験も浅かったため、孫策は心配していました。そこで孫策は、信頼できる武将として周泰を孫権の護衛に派遣しました。
197年、山越の大軍が突如として宣城を襲撃しました。呉軍は不意を突かれ、兵力も少なく、孫権は絶体絶命の危機に陥りました。この時、周泰は決死の覚悟で孫権を守りました。
奇跡の生還と孫権の感謝
戦いの後、周泰は重傷のため生死の境をさまよいました。しかし、驚異的な生命力と呉の医師たちの懸命な治療により、奇跡的に一命を取り留めました。回復には長い時間がかかりましたが、周泰は再び戦場に立つことができるまでに回復しました。
孫権は周泰の忠誠と勇気に深く感動し、生涯にわたって周泰を特別に厚遇しました。後年、孫権が呉王となった後も、宴席で周泰の服を脱がせて傷跡を見せ、涙を流しながら一つ一つの傷の由来を尋ね、周泰の功績を称えたという逸話が残されています。
赤壁の戦いと江陵攻防戦
208年の赤壁の戦いでは、周泰は呉の水軍の一翼を担って参戦しました。火攻めの作戦では、周瑜の指揮の下、敢死隊の一員として曹操軍の船団に接近し、火を放つ危険な任務を遂行しました。
濡須口の守備と曹操との対峙
孫権は長江の要衝である濡須口に堅固な要塞を築き、周泰をその守備の責任者に任命しました。濡須口は呉の国防上極めて重要な拠点であり、この地を任されたことは孫権の周泰に対する絶対的な信頼を示していました。
213年と216年、曹操は大軍を率いて濡須口に攻め寄せました。周泰は寡兵ながら巧みな防御戦術を展開し、曹操の大軍を撃退することに成功しました。
生きて周泰のような将を得ることができれば
平北将軍への昇進
周泰の累積した功績により、孫権は彼を平虜将軍に任命しました。これは呉の武将の中でも高位の将軍職であり、周泰の功績がいかに大きかったかを示しています。
しかし、一部の士大夫出身の将軍たちは、周泰の出自が低いことを理由に、彼の指揮下に入ることを嫌がりました。これを知った孫権は、自ら濡須口の陣営を訪れ、大宴会を開いて周泰に自らの御蓋を賜り、公然と周泰への支持を表明しました。
朱然・徐盛との共同作戦
周泰は同僚の武将たちとも良好な関係を築いていました。特に朱然や徐盛とは戦場で何度も共同作戦を行い、互いに信頼し合う戦友となりました。
周泰の人柄と部下への接し方
周泰は勇猛な武将でしたが、普段は寡黙で謙虚な人物だったと伝えられています。自らの武功を誇ることなく、常に黙々と任務を遂行しました。この謙虚さは、却って同僚や部下からの尊敬を集める要因となりました。
部下に対しては厳しくも公正で、功績があれば必ず報い、過ちがあれば自ら範を示して正しました。また、戦場では常に先頭に立って戦い、部下たちに勇気を与えました。このような姿勢により、周泰の部隊は呉軍の中でも特に士気が高く、規律正しい部隊として知られていました。
晩年と最期
周泰は220年代前半まで存命し、呉の国防を支え続けました。晩年も第一線で活躍し、若い武将たちの手本となりました。正確な没年は記録されていませんが、黄武年間(222年-229年)の初期に亡くなったと推測されています。
孫権は周泰の死を深く悲しみ、手厚く葬りました。また、周泰の子である周邵を騎都尉に任命し、父の功績に報いました。周邵もまた父の勇名を継ぎ、呉の将軍として活躍しました。
周泰の武勇と忠義の評価
陳寿の『三国志』では、周泰を「江表の虎臣」の一人として挙げ、その武勇を高く評価しています。特に「身を捨てて主を守る」という忠義の精神は、後世の武人の鑑とされました。