呂蒙 - 呉下の阿蒙にあらず

呂蒙 - 呉下の阿蒙にあらず

呂蒙(178年-220年)は、三国時代呉の武将。字は子明。「呉下の阿蒙にあらず」の故事で知られ、学問によって飛躍的に成長した武将として有名。関羽を討ち取り荊州を奪還した功績により、呉の歴史に名を刻んだ。武勇と知略を兼ね備え、孫権から深く信頼された名将である。

出自と青年期

呂蒙は汝南郡富陂県の出身で、幼くして父を亡くし、姉と共に生活していた。家は貧しく、学問を学ぶ機会もなかったが、勇気と武勇に優れていた。

史実: 呂蒙の家系は詳しく記録されていないが、平民の出身であったと考えられる。これは後の呉の門閥制度の中で、実力による立身出世を体現した人物として重要な意味を持つ。

孫策への仕官

196年頃、18歳頃の呂蒙は姉の夫である鄧当の部下として孫策軍に参加。この時はまだ一介の兵士に過ぎなかったが、その勇猛さで頭角を現した。

山越討伐や袁術討伐に参加し、数々の戦功を挙げる。特に勇敢な突撃で敵陣を崩すことが多く、同僚たちからも一目置かれる存在となった。

孫権時代の活躍

200年に孫策が暗殺されると、呂蒙は孫権に仕えるようになった。孫権は呂蒙の才能を早くから認め、重要な軍事作戦を任せるようになった。

呂蒙の勇は士卒を励ますに足る

学問への転身 - 「呉下の阿蒙にあらず」

208年頃、孫権は呂蒙に学問を勧めた。当初は軍務を理由に断ったが、孫権の強い勧めで読書を始め、驚くべき成長を遂げた。

孫権の勧学

卿今当塗掌事、不可不学(君は今、重要な地位にあり、学問をしないわけにはいかない)

孫権は呂蒙に対し、「孤は卿に博士となれと言うのではない。ただ過去を鑑として今に備えるため」と学問の必要性を説いた。呂蒙はこの言葉に感動し、勉学に励むようになった。

史実: 呂蒙が学んだのは主に史書と兵法書であった。『左氏春秋』『史記』『漢書』『孫子』『六韜』などを読み、特に歴史から戦略を学ぶことに長けていた。

魯粛との会談

数年後、魯粛が陸口を訪れた際、呂蒙の博学ぶりに驚愕した。魯粛は「士、別れて三日なれば、即ち更に刮目して相待すべし(人は三日も会わなければ、目を見開いて改めて見るべきだ)」と感嘆した。

非復呉下阿蒙(もはや呉下の阿蒙ではない)
演義: 「士別三日、即更刮目相待」は現在でも使われる故事成語として有名。人の成長を表現する代表的な言葉となっている。

主要な軍事活動

学問を身に着けた呂蒙は、武勇だけでなく知略においても優れた将軍となった。特に水軍の指揮と要塞攻略に優れた才能を発揮した。

合肥攻撃

208年、214年の合肥攻撃で呂蒙は重要な役割を果たした。特に214年の戦いでは、張遼の反撃を受けながらも冷静に軍を指揮し、大きな損害を避けた。

史実: 214年の合肥での戦いで、孫権が張遼の追撃を受けた際、呂蒙は甘寧と共に殿軍を務め、孫権の脱出を助けた。この功績により虎威将軍に昇進。

江陵攻略

215年、劉備と孫権の間で荊州の領有を巡って対立が生じた際、呂蒙は江陵(南郡)の攻略を担当。巧妙な戦術で関羽軍を牽制し、最終的に和議に導いた。

作戦結果
215年江陵包囲関羽との対峙
215年益陽での睨み合い単刀会による和議
216年南郡太守就任荊州東部の統治

関羽討伐 - 生涯最大の功績

219年、関羽が樊城・襄陽を攻撃して「水淹七軍」の大勝を収めると、呂蒙は巧妙な策略で関羽の背後を突き、荊州奪還を成功させた。

病気を装う計略

呂蒙は病気を装って建業に帰還し、関羽の警戒心を解いた。陸遜を後任に推薦し、若い陸遜が関羽に媚びるような手紙を送ることで、関羽は荊州の守備兵力を樊城攻撃に回してしまった。

関羽は驕傲で、陸遜は若く名も知られていない。必ず軽視して、荊州の兵を北方に向けるであろう
史実: 呂蒙の病気は実際には仮病ではなく、実際に体調を崩していた。しかしそれを利用して関羽を欺く計略として使ったのが巧妙であった。

荊州奪還作戦

219年11月、呂蒙は精鋭部隊を白衣に変装させて商船に隠し、荊州の各拠点を一挙に制圧。関羽の家族を捕らえ、荊州全域を呉の支配下に置いた。

  • 公安:傅士仁が降伏
  • 江陵:麋芳が降伏
  • 各県:蜀軍守備隊が次々降伏
  • 関羽の家族:保護して厚遇

呂蒙は占領地で軍紀を厳しく統制し、民衆から一物も取らないよう命じた。これにより荊州の民心を呉に向けさせることに成功した。

関羽の最期

樊城から撤退した関羽は、荊州を失ったことを知り絶望。最後の抵抗を試みるが、呂蒙の策略により部下は次々と離散し、最終的に臨沮で潘璋の部将・馬忠に捕らえられ処刑された。

史実: 関羽の処刑については議論があるが、呂蒙が直接命じたものではなく、孫権の決断であったとされる。呂蒙は関羽の武勇を敬っており、複雑な心境だったと言われる。

人物像と特徴

呂蒙は武人から学者へと変身を遂げた稀有な人物である。その人格は誠実で義理堅く、部下からの信頼も厚かった。

性格と人格

  • 向学心:孫権の勧めで学問に目覚め、短期間で博学になった
  • 義理堅さ:仲間や部下を大切にし、約束を必ず守った
  • 実直さ:飾り気がなく、率直に意見を述べた
  • 軍紀厳正:占領地での略奪を厳禁し、民心を掌握

戦略的思考

呂蒙の戦略的思考の特徴は、敵の心理を読み、弱点を突く巧妙さにあった。関羽討伐では、関羽の性格を完全に見抜いて成功に導いた。

兵不厭詐(兵は詐を厭わず)

突然の死と後世への影響

220年、関羽討伐の直後、呂蒙は突然病に倒れ、42歳の若さで急死した。その死は呉にとって大きな損失であった。

急死の謎

呂蒙の死因は史書でも明確ではないが、関羽討伐時からの病気が悪化したものとされる。一部には関羽の怨霊説もあるが、これは後世の創作である。

史実: 呂蒙は死の直前、孫権に陸遜を後継者として推薦した。この推薦が呉の将来を左右する重要な人事となった。
演義: 『三国志演義』では関羽の怨霊に取り殺されたとされるが、これは完全な創作。実際は病死である。

歴史的意義

呂蒙の関羽討伐は三国時代の転換点となった。蜀の荊州喪失により劉備の統一の夢は潰え、三国鼎立が確定した。

  • 荊州奪還:呉の生存圏確保
  • 関羽討伐:蜀漢の国力削減
  • 戦略的勝利:三国バランスの確定
  • 後継者育成:陸遜への道筋

文化的影響と故事

呂蒙の生涯は「学問の力」を示す代表的な例として、中国文化に深く根付いている。特に「呉下の阿蒙にあらず」は現在でも使われる故事成語である。

有名な故事成語

  • 呉下阿蒙(ごかのあもう):学のない者の代名詞
  • 刮目相待(かつもくそうたい):人の成長を認めて見直すこと
  • 士別三日(しべつさんじつ):短期間での大きな成長
  • 白衣渡江(はくいとこう):秘密作戦の成功例

教育的意義

呂蒙の例は、出身や学歴に関係なく、学問によって人生を変えられることを示している。現代でも「学習の重要性」を説く際の代表的な例として引用される。

学而時習之、不亦説乎(学びて時に之を習う、亦説ばしからずや)