呂布とは - 三国志最強の武将
呂布は后漢末期の動乱の時代に活躍した武将で、その武勇は当時から「人中に呂布あり、馬中に赤兎あり」と謳われるほどでした。弓術と馬術に長け、戟の扱いにも優れていた呂布は、戦場では無敵とも言える存在感を放っていました。
飛将軍の異名と武勇
「飛将軍」の異名は、呂布の圧倒的な騎馬戦術から生まれました。赤兎馬は一日に千里を走ると言われる名馬で、その毛並みは燃えるような赤色をしていました。
赤兎馬と方天画戟
武器として愛用した方天画戟は、戟の刃に装飾的な三日月型の刃が付いた独特の武器で、呂布の怪力があってこそ自在に扱える重量級の武器でした。
虎牢関の戦い - 三英雄との激闘
呂布の武勇を最も象徴する戦いが、虎牢関での戦いです。董卓軍の先鋒として出陣した呂布は、反董卓連合軍の諸将を次々と打ち破りました。
裏切りと流転の生涯
呂布の生涯は裏切りの連続でした。主君を次々と裏切る性格から「三姓家奴」と呼ばれ、信義を重んじる武将たちからは軽蔑されました。
丁原殺害と董卓への帰順
呂布は元々并州刺史・丁原の配下として仕えていました。しかし、董卓の誘いに応じて主君・丁原を殺害し、董卓の養子となってしまいます。
董卓暗殺
192年、呂布は王允と共謀して董卓を暗殺しました。未央殿で董卓を待ち伏せし、方天画戟で一撃のもとに倒したと言われています。
詔を奉じて賊臣を討つ
徐州での栄華と最期
各地を転々とした呂布は、最終的に徐州で劉備に受け入れられましたが、またしても裏切りを犯してしまいます。
劉備との関係
196年、劉備が袁術と戦っている隙に、呂布は徐州を奪取してしまいます。これが三度目の大きな裏切りでした。
下邳城の攻防戦
198年、曹操は劉備と共に呂布討伐の軍を起こしました。呂布は下邳城に籠城して抵抗しましたが、水攻めと内部の裏切りにより、ついに城は陥落しました。
白門楼での最期
捕らえられた呂布は、白門楼で曹操に必死に助命を乞いました。しかし、劉備の進言により処刑が決断され、198年12月に縊り殺されました。
私が騎兵を、明公が歩兵を率いれば、天下統一も夢ではない
呂布の評価と後世への影響
呂布は、その圧倒的な武勇により三国志最強の武将として語り継がれています。しかし同時に、主君を次々と裏切った不忠の将としても記憶されており、その評価は複雑です。
後世の創作物では、呂布は最強の敵役として、また時には悲劇の英雄として描かれることが多く、その存在感は三国志の物語に欠かせないものとなっています。