陸遜 - 夷陵の勝者、呉の名将

陸遜 - 夷陵の勝者、呉の名将

陸遜(183年-245年)は、三国時代呉の武将・政治家。字は伯言。夷陵の戦いで劉備を大破し、呉の存続を決定づけた名将として知られる。若くして頭角を現し、軍事・政治の両面で活躍。周瑜、魯粛に続く呉の大都督として、呉の黄金時代を支えた知勇兼備の英傑である。

出自と青年期

陸遜は呉郡呉県の名門・陸氏の出身で、祖父・陸紆は郡功曹を務めた。父・陸駿も太守まで昇進した官僚一家であった。幼くして両親を亡くし、従祖父の陸康に養育された。

史実: 陸康は廬江太守として袁術と戦って戦死した忠臣で、陸遜はその忠義の精神を受け継いだ。陸氏は呉の四大名族(陸・朱・顧・張)の一つとして、代々呉に仕えた。

孫権への仕官

204年、21歳の陸遜は孫権に仕官し、東西曹の掾に任命された。この時期から孫権に才能を認められ、重要な任務を任せられるようになった。

此子深識遠慮、其当興我家(この若者は深い洞察力と遠大な計画性を持つ、必ず我が家を興すであろう)

山越平定と荊州統治

陸遜の最初の大きな功績は、江南地域の山越族平定であった。その後、関羽討伐において重要な役割を果たし、荊州統治を任された。

山越族の平定

210年頃から、陸遜は建安・鄱陽・新都の山越族平定を指揮。軍事力と政治的懐柔を組み合わせ、数万の山越民を平地に移住させ、呉の兵力と労働力の確保に成功した。

  • 建安郡:韓当と共に山越首領の費棧を討伐
  • 鄱陽郡:帥万余人を降伏させる
  • 新都郡:詹強、費棧の残党を平定

関羽討伐への参与

219年、関羽が樊城・襄陽を攻撃した際、陸遜は呂蒙と連携して荊州攻略を成功させる戦略を提案。関羽の後方を断つことで、関羽を孤立させた。

史実: 陸遜は関羽に偽りの書簡を送り、若輩者を装って関羽の警戒心を解いた。この計略により、関羽は荊州の守備兵力を樊城攻撃に回してしまった。

関羽討伐後、陸遜は宜都太守に任命され、荊州の要地を守備した。また、劉備の復讐戦に備えて巴蜀国境の防備を固めた。

夷陵の戦い - 最大の功績

222年、関羽の仇討ちを掲げた劉備が大軍を率いて呉に侵攻。陸遜は39歳で大都督に任命され、老練な諸将を統率して劉備軍を迎え撃った。

大都督への抜擢

当初、呉の諸将は若い陸遜の指揮に不満を抱いたが、陸遜は毅然とした態度で軍を統制。持久戦の戦略を貫き、劉備軍の弱点を見抜いた。

劉備は狡猾で、かつて曹公を苦しめた。今は意気盛んで、急に攻撃すべきではない。諸君は国家の重臣、私は年少だが主君の命を受けた。ただ国事に励むのみ

火攻めによる大勝利

222年6月、陸遜は猇亭で火攻めを決行。連なる蜀軍の陣営を一挙に焼き払い、劉備軍を壊滅させた。劉備は白帝城まで敗走し、この敗戦が蜀漢の国力を大きく削いだ。

段階戦術結果
初期持久戦で劉備軍を疲弊させる蜀軍の士気低下
中期地形を利用して防御を固める蜀軍の進撃阻止
決戦火攻めで連営を焼き払う劉備軍の壊滅的敗北
史実: 夷陵の戦いでの陸遜の勝利は、三国鼎立を決定づけた。蜀漢は二度と呉に大規模な侵攻を行えなくなり、魏への対抗上、呉蜀同盟が復活する契機となった。

対魏戦略と北伐

夷陵の勝利後、陸遜は呉の北方戦略の中核を担った。蜀との同盟回復を図り、魏に対する二正面作戦を展開した。

呉蜀同盟の回復

223年、劉備の死後、陸遜は蜀との和解を主張。諸葛亮との外交交渉を通じて同盟を回復し、共通の敵である魏に対抗する体制を築いた。

今は魏が強大であり、蜀と呉が争えば両者が疲弊するだけ。同盟こそが生存の道

対魏戦役

228年以降、陸遜は諸葛亮の北伐と連動して魏の淮南地方への攻撃を指揮。魏軍を分散させ、蜀の北伐を側面から支援した。

  • 228年:石亭の戦いで魏の曹休を大破
  • 234年:合肥新城攻撃で魏軍を牽制
  • 241年:芍陂の戦いで魏軍と激戦
史実: 石亭の戦いは陸遜のもう一つの名勝である。曹休を偽りの情報で誘い出し、待ち伏せで大勝。この勝利により、魏の南征計画は頓挫した。

政治家としての陸遜

陸遜は軍人としてだけでなく、優秀な政治家でもあった。内政の充実、教育の振興、法制の整備に尽力し、呉の国力増強に貢献した。

内政の充実

陸遜は荊州統治において、農業振興と人口増加政策を実施。山越族を平地に移住させ、屯田制を導入して食料生産を向上させた。

  • 屯田制の導入:軍事と農業の両立
  • 人材登用:門閥にとらわれない実力主義
  • 教育振興:学校の設置と儒学の奨励

太子問題での立場

241年に起きた太子・孫和と魯王・孙覇の後継者争いで、陸遜は太子を支持。この政治的対立が後に陸遜の失脚につながった。

史実: 陸遜は「太子は国の根本」として孫和を支持し続けた。しかし孙覇派の讒言により孫権の不興を買い、最晩年は政治的に孤立した。

人物像と評価

陸遜は温厚で学問を好み、部下に対しては厳格ながら公正であった。戦略眼に優れ、政治的洞察力も深く、呉の最も優秀な人材の一人とされる。

人格と特徴

  • 温厚篤実:部下からの信望が厚い
  • 学問好き:儒学に精通し、文化振興に努める
  • 慎重沈着:軽率な行動を取らず、熟慮して決断
  • 公正無私:私情を排し、国家の利益を優先

軍事的才能

陸遜の軍事的天才は、戦況を冷静に分析し、敵の心理を読み抜く能力にあった。特に持久戦と火攻めを巧みに使い分けた。

兵者詭道、能示之以不能(兵とは詭道なり、能なるを示すに不能を以てし)

最期と後世への影響

245年、陸遜は太子問題での政治的対立の中で病没。享年63歳。その死は呉にとって大きな損失となった。

史実: 陸遜の死後、孫権は自らの判断を後悔し、陸遜を昭侯と諡した。陸遜の子・陸抗も名将として活躍し、陸氏は呉の重要な一族として続いた。

歴史的意義

陸遜の最大の功績は夷陵の戦いで劉備を破り、三国鼎立を確定させたことである。この勝利がなければ、呉は蜀に併合されていた可能性が高い。

  • 軍事面:夷陵・石亭での大勝利
  • 政治面:呉蜀同盟の回復と対魏戦略
  • 内政面:荊州統治と国力増強
  • 人材面:多くの有能な部下を育成