出自と青年期
陸遜は呉郡呉県の名門・陸氏の出身で、祖父・陸紆は郡功曹を務めた。父・陸駿も太守まで昇進した官僚一家であった。幼くして両親を亡くし、従祖父の陸康に養育された。
孫権への仕官
204年、21歳の陸遜は孫権に仕官し、東西曹の掾に任命された。この時期から孫権に才能を認められ、重要な任務を任せられるようになった。
此子深識遠慮、其当興我家(この若者は深い洞察力と遠大な計画性を持つ、必ず我が家を興すであろう)
山越平定と荊州統治
陸遜の最初の大きな功績は、江南地域の山越族平定であった。その後、関羽討伐において重要な役割を果たし、荊州統治を任された。
山越族の平定
210年頃から、陸遜は建安・鄱陽・新都の山越族平定を指揮。軍事力と政治的懐柔を組み合わせ、数万の山越民を平地に移住させ、呉の兵力と労働力の確保に成功した。
- 建安郡:韓当と共に山越首領の費棧を討伐
- 鄱陽郡:帥万余人を降伏させる
- 新都郡:詹強、費棧の残党を平定
関羽討伐への参与
219年、関羽が樊城・襄陽を攻撃した際、陸遜は呂蒙と連携して荊州攻略を成功させる戦略を提案。関羽の後方を断つことで、関羽を孤立させた。
関羽討伐後、陸遜は宜都太守に任命され、荊州の要地を守備した。また、劉備の復讐戦に備えて巴蜀国境の防備を固めた。
夷陵の戦い - 最大の功績
222年、関羽の仇討ちを掲げた劉備が大軍を率いて呉に侵攻。陸遜は39歳で大都督に任命され、老練な諸将を統率して劉備軍を迎え撃った。
大都督への抜擢
当初、呉の諸将は若い陸遜の指揮に不満を抱いたが、陸遜は毅然とした態度で軍を統制。持久戦の戦略を貫き、劉備軍の弱点を見抜いた。
劉備は狡猾で、かつて曹公を苦しめた。今は意気盛んで、急に攻撃すべきではない。諸君は国家の重臣、私は年少だが主君の命を受けた。ただ国事に励むのみ
火攻めによる大勝利
222年6月、陸遜は猇亭で火攻めを決行。連なる蜀軍の陣営を一挙に焼き払い、劉備軍を壊滅させた。劉備は白帝城まで敗走し、この敗戦が蜀漢の国力を大きく削いだ。
段階 | 戦術 | 結果 |
---|---|---|
初期 | 持久戦で劉備軍を疲弊させる | 蜀軍の士気低下 |
中期 | 地形を利用して防御を固める | 蜀軍の進撃阻止 |
決戦 | 火攻めで連営を焼き払う | 劉備軍の壊滅的敗北 |
対魏戦略と北伐
夷陵の勝利後、陸遜は呉の北方戦略の中核を担った。蜀との同盟回復を図り、魏に対する二正面作戦を展開した。
呉蜀同盟の回復
223年、劉備の死後、陸遜は蜀との和解を主張。諸葛亮との外交交渉を通じて同盟を回復し、共通の敵である魏に対抗する体制を築いた。
今は魏が強大であり、蜀と呉が争えば両者が疲弊するだけ。同盟こそが生存の道
対魏戦役
228年以降、陸遜は諸葛亮の北伐と連動して魏の淮南地方への攻撃を指揮。魏軍を分散させ、蜀の北伐を側面から支援した。
- 228年:石亭の戦いで魏の曹休を大破
- 234年:合肥新城攻撃で魏軍を牽制
- 241年:芍陂の戦いで魏軍と激戦
政治家としての陸遜
陸遜は軍人としてだけでなく、優秀な政治家でもあった。内政の充実、教育の振興、法制の整備に尽力し、呉の国力増強に貢献した。
内政の充実
陸遜は荊州統治において、農業振興と人口増加政策を実施。山越族を平地に移住させ、屯田制を導入して食料生産を向上させた。
- 屯田制の導入:軍事と農業の両立
- 人材登用:門閥にとらわれない実力主義
- 教育振興:学校の設置と儒学の奨励
太子問題での立場
241年に起きた太子・孫和と魯王・孙覇の後継者争いで、陸遜は太子を支持。この政治的対立が後に陸遜の失脚につながった。
人物像と評価
陸遜は温厚で学問を好み、部下に対しては厳格ながら公正であった。戦略眼に優れ、政治的洞察力も深く、呉の最も優秀な人材の一人とされる。
人格と特徴
- 温厚篤実:部下からの信望が厚い
- 学問好き:儒学に精通し、文化振興に努める
- 慎重沈着:軽率な行動を取らず、熟慮して決断
- 公正無私:私情を排し、国家の利益を優先
軍事的才能
陸遜の軍事的天才は、戦況を冷静に分析し、敵の心理を読み抜く能力にあった。特に持久戦と火攻めを巧みに使い分けた。
兵者詭道、能示之以不能(兵とは詭道なり、能なるを示すに不能を以てし)
最期と後世への影響
245年、陸遜は太子問題での政治的対立の中で病没。享年63歳。その死は呉にとって大きな損失となった。
歴史的意義
陸遜の最大の功績は夷陵の戦いで劉備を破り、三国鼎立を確定させたことである。この勝利がなければ、呉は蜀に併合されていた可能性が高い。
- 軍事面:夷陵・石亭での大勝利
- 政治面:呉蜀同盟の回復と対魏戦略
- 内政面:荊州統治と国力増強
- 人材面:多くの有能な部下を育成