甘寧 - 錦帆賊から呉の猛将へ

甘寧 - 錦帆賊から呉の猛将へ

甘寧(?-220年)は、三国時代呉の武将。字は興霸。元々は長江を根城とする水賊の首領「錦帆賊」として恐れられたが、後に孫権に仕官し、呉の重要な武将となった。勇猛果敢で義理に厚く、「宁児」の愛称で親しまれた。合肥攻撃や濡須口の戦いで活躍し、呉の水軍戦力の中核を担った豪快な人物である。

錦帆賊時代

甘寧は青年期に長江上流域で水賊の首領となり、「錦帆賊」と呼ばれた。錦の帆を張った船団を率い、商船を襲撃しながらも、義賊として庶民からは恐れられながらも一定の敬意を受けていた。

史実: 甘寧の水賊時代は詳細な記録が少ないが、長江の水運を知り尽くし、配下の水賊たちからも慕われるリーダーであったことは確かである。この経験が後の水軍指揮官としての能力の基礎となった。

錦帆船団の威容

甘寧の船団は錦の帆を張り、配下の部下たちは皆絹や錦の衣服を身に着けていた。この華やかな装いは長江流域で「錦帆賊」として恐れられ、その名を轟かせた。

錦帆過処、商旅辟易(錦の帆が通るところ、商人は道を避ける)

劉表配下時代

190年代後期、甘寧は劉表に投降し、正式な武将となった。しかし劉表は甘寧の才能を十分に活用せず、甘寧は次第に不満を募らせていた。

黄祖配下での活躍

劉表の配下として、甘寧は黄祖の部将となり、江夏を拠点として呉軍との戦いに参加した。208年には太史慈との一騎打ちで互角の戦いを演じるなど、その武勇を示した。

史実: 甘寧は黄祖配下時代に孫堅を射殺したとされるが、これは後世の混同で、実際に孫堅を射殺したのは別人である。甘寧は勇猛だが、不必要な殺生は好まない性格だった。

劉表への不満

劉表は保守的で、甘寧のような積極的な武将を重用しなかった。甘寧は「劉牧は王霸の器ではない」と評し、より有能な主君を求めるようになった。

劉牧雖然善待士、然不能用也(劉牧は確かに士を善く待すが、しかしこれを用いることができない)

孫権への投降と活躍

208年頃、甘寧は黄祖を見限り、孫権に投降した。孫権は甘寧を手厚く迎え、その才能を存分に活用した。甘寧もこれに応え、数々の軍功を挙げた。

孫権の厚遇

孫権は甘寧を西陵太守に任命し、配下の数百名の部下も優遇した。また、甘寧の豪快な性格を理解し、その個性を活かす任務を与えた。

孟德有張遼、孤有興霸、足以相敵也(曹操に張遼がいるように、私には興霸がいる。これで対等だ)

初期の功績

甘寧は孫権配下となってすぐに、その水軍指揮能力を発揮。特に長江流域での作戦において、その経験を活かした戦術で成果を上げた。

  • 夷陵攻略:黄祖軍を撃破し、重要な拠点を奪取
  • 江夏攻撃:黄祖を討ち取る作戦に参加
  • 水軍整備:呉水軍の戦力強化に貢献

主要な戦役での活躍

甘寧は赤壁の戦い以降、呉の主要な軍事作戦に参加し、特に合肥攻撃と濡須口の戦いで際立った活躍を見せた。

合肥攻撃での活躍

208年と214年の合肥攻撃で甘寧は重要な役割を果たした。特に214年の戦いでは、張遼の奇襲で危機に陥った孫権を救出する活躍を見せた。

史実: 214年の合肥攻撃で、張遼の反撃により孫権が包囲された際、甘寧は呂蒙と共に殿軍を務め、孫権の脱出を成功させた。この功績により折衝将軍に昇進。

濡須口夜襲

213年、曹操が濡須口を攻撃した際、甘寧は百名の精鋭を率いて夜襲を敢行。曹操軍の陣営に突入し、数百名を討ち取って悠然と帰還した。

宁児竟敢爾乎(甘寧の奴めはよくやった)

この夜襲は「甘寧百騎劫曹営」として三国志の名場面の一つとなった。甘寧の勇猛さと用兵の巧みさを示す代表的な戦例である。

人物像と特徴

甘寧は豪快で義理に厚く、部下を大切にする武将であった。元海賊らしい自由奔放さを持ちながら、忠誠心も深く、孫権から愛されていた。

性格と人格

  • 豪快さ:派手な装いを好み、華やかな生活を送った
  • 義理堅さ:一度受けた恩は必ず返し、仲間を裏切らない
  • 部下思い:配下の水賊たちを家族のように大切にした
  • 勇猛果敢:危険を顧みず、先頭に立って戦った

甘寧は「宁児(ねいじ)」という愛称で呼ばれ、親しみやすい人柄で知られた。しかし戦場では鬼神のような勇猛さを発揮した。

指揮官としての特徴

甘寧の指揮の特徴は、自らが先頭に立つことで部下の士気を高めることであった。また、水戦の経験を活かし、機動力を重視した戦術を得意とした。

寧居前、軍無不進(甘寧が前にいれば、軍は進まないことがない)

人間関係とエピソード

甘寧は同僚や部下との関係も良好で、多くの興味深いエピソードが残されている。特に凌統との確執と和解は有名である。

凌操射殺事件

甘寧が黄祖配下だった時代に、甘寧の放った矢で呉の将軍・凌操が戦死した。このため凌操の息子・凌統は甘寧を深く恨んでいた。

史実: 凌操の死は戦場での出来事で、甘寧に特別な悪意があったわけではないが、凌統の恨みは深く、孫権も調停に苦労した。

凌統との和解

215年の戦いで甘寧が危機に陥った時、凌統が救援に向かい、甘寧を救った。この出来事をきっかけに二人は和解し、戦友となった。

公事也、何私怨之有(これは公の事である、何の私恨があろうか)

この和解は呉軍内の結束を強める重要な出来事となり、孫権も大いに喜んだとされる。

最期と評価

220年、甘寧は病気により死去した。享年は不明だが、孫権に仕えてから約12年間、呉の水軍戦力の中核として活躍した。

晩年の活動

甘寧の晩年は主に長江流域の防備を担当し、水軍の訓練と組織化に尽力した。その経験と知識は後進の育成に大きく貢献した。

後世の評価

甘寧は「江東の猛虎」として呉の歴史に名を刻んだ。元海賊から正規軍将軍への転身は、実力主義の呉の象徴的な例として評価されている。

  • 軍事面:水軍戦術の発達に貢献
  • 人物面:義理と勇気を兼ね備えた武将の典型
  • 組織面:多様な人材を活用する呉の方針を体現
  • 文化面:「錦帆賊」として民間伝承に影響

伝説と民間伝承

甘寧の豪快な生き様は後世の人々に深い印象を与え、様々な伝説や民間伝承を生んだ。特に「錦帆賊」時代の逸話は多くの物語に取り入れられた。

民間伝承

甘寧は「義賊」として民間では英雄視されることも多く、弱者を助ける正義の味方として描かれることが多い。これは史実の甘寧の人格を反映している。

  • 錦帆船伝説:華麗な船で長江を駆け抜ける英雄譚
  • 義賊物語:強きを挫き弱きを助ける正義の盗賊
  • 水神信仰:長江の守護神として祀られることもある
  • 武勇伝:一騎当千の豪傑として様々な武勇伝

文化的影響

甘寧の生涯は「改心」「転身」の物語として、多くの文学作品や演劇に影響を与えた。悪から善への転換を描く物語の原型の一つとされる。

演義: 『三国志演義』では甘寧の活躍がより劇的に描かれているが、基本的な人物像は史実に忠実である。特に濡須口の夜襲は演義でも詳しく描写されている。