出生と青年期
諸葛亮(181年 - 234年)は後漢末期から三国時代の政治家・軍師。字は孔明。徐州琅邪郡陽都県出身。幼少期に両親を失い、叔父の諸葛玄に養われ、荊州移住後は隆中で晴耕雨読の生活を送る。
臥龍、鳳雛のいずれか一人を得れば、天下を定めることができる— 司馬徽
三顧の礼と劉備との出会い(207年)
207年、劉備は徐庶の推薦により三度諸葛亮の草廬を訪れた(三顧の礼)。当時諸葛亮27歳、劉備47歳。史実だが、演義の劇的演出は後世の創作。
赤壁の戦いと荊州時代(208-214年)
208年、曹操が大軍を率いて南下すると、諸葛亮は孫権との同盟締結のため、使者として江東に赴いた。
益州平定と蜀漢建国(214-223年)
214年、劉備が益州を平定すると、諸葛亮は軍師将軍・左将軍府事となり、内政の中心を担った。
劉備の死と摂政時代(223-234年)
223年、劉備が白帝城で崩御。諸葛亮は遺命を受けて、幼帝劉禅を補佐することとなった。
北伐 - 漢室復興への挑戦(228-234年)
諸葛亮は生涯に五度の北伐を行い、魏との戦いに全精力を注いだ。しかし、国力の差と補給の困難さから、決定的な勝利を得ることはできなかった。
第一次北伐(228年)
228年春、諸葛亮は「出師表」を上奏し、第一次北伐を開始した。
先帝創業未だ半ばならずして、中道に崩殂す。今、天下三分し、益州は疲弊す。此れ誠に危急存亡の秋なり。— 出師表
当初は順調に進軍したが、街亭の戦いで馬謖が独断で布陣を変更し、張郃に大敗。諸葛亮は撤退を余儀なくされた。
第二次〜第四次北伐
第五次北伐と最期(234年)
234年、諸葛亮は10万の大軍を率いて五度目の北伐を開始。五丈原で司馬懿と対陣した。
諸葛亮は屯田を行いながら長期戦の構えを見せたが、司馬懿は堅守して決戦を避けた。対陣すること百余日、諸葛亮は陣中で病に倒れた。
漢賊不両立、王業不偏安(漢と賊は並び立たず、王業は偏安できず)— 諸葛亮の遺言
234年8月23日(旧暦8月)、諸葛亮は五丈原の陣中で病死した。享年54歳。遺言により、定軍山に葬られた。
内政と統治
諸葛亮は軍事だけでなく、内政においても卓越した能力を発揮した。その統治は「法による公正」を基本とした。
発明と軍事革新
諸葛亮は軍事技術の革新者としても知られ、多くの発明を行った。
人物像と評価
諸葛亮は清廉潔白な人格者として知られ、敵からも尊敬された。
史実と演義の違い
『三国志演義』では諸葛亮は神算鬼謀の超人として描かれるが、史実とは異なる部分も多い。
項目 | 史実 | 演義 |
---|---|---|
赤壁の戦い | 同盟締結が主な功績 | 東南風を起こすなど超自然的活躍 |
周瑜との関係 | 協力関係 | ライバルとして周瑜を憤死させる |
空城計 | 記録なし | 司馬懿を撤退させる名場面 |
借東風 | 創作 | 祭壇で風を呼ぶ |
錦嚢の計 | 一部史実 | より劇的に描写 |
七星灯 | 創作 | 寿命を延ばそうとする |
魏延の反骨 | 後の対立を誇張 | 最初から反骨の相を見抜く |
後世への影響
諸葛亮は中国史上最も有名な宰相の一人となり、「智慧の化身」として後世に多大な影響を与えた。