出生と青年期
全琮(?年 - 249年)は呉の将軍・政治家。字は子璜。呉郡銭唐の出身。父は呉の重臣である全柔で、全琮は父の後を継いで呉に仕えることとなった。全家は代々呉の有力な豪族であり、孫権政権の中核を担う一族だった。
父の全柔は孫策・孫権時代から重用され、特に内政面で大きな功績を残した。全琮は幼少期から父の薫陶を受け、政治と軍事の両面で教育を受けて成長した。若い頃から文武両道に秀で、呉の次世代を担う人材として期待された。
呉での立身と初期の功績(210-230年代)
全琮は孫権の下で着実に昇進を重ねた。最初は父の全柔の副官として内政に携わったが、その後軍事面でも才能を発揮するようになった。特に荊州方面での戦いにおいて、その軍事的才能が認められた。
220年代には偏将軍に任命され、呉の主要な軍事作戦に参加するようになった。全琮の特徴は、単なる武勇だけでなく、戦略的な判断力に優れていたことである。敵の動きを的確に読み、効果的な作戦を立案する能力は、孫権や周瑜らからも高く評価された。
対魏戦争での活躍(230-240年代)
全琮の軍事的キャリアの頂点は、魏との一連の戦いでの活躍だった。230年代から240年代にかけて、呉は魏に対して積極的な北伐を行ったが、全琮はこれらの作戦において重要な役割を果たした。
特に有名なのは、238年の遼東遠征である。この時、魏では遼東の公孫淵が反乱を起こし、呉はこれを支援するため大軍を派遣した。全琮は主要な将軍の一人として参加し、海路での困難な作戦を成功させた。
全琮の用兵は巧妙で、敵を惑わせる戦術に長けている— 呉書 全琮伝
240年代には衛将軍に昇進し、呉の軍事作戦の中核を担うようになった。この時期の全琮は、単独で軍団を指揮する能力を持つまでに成長しており、魏軍との戦いで数々の戦功を挙げた。
政治家としての全琮
全琮は軍人としてだけでなく、政治家としても重要な役割を果たした。父の全柔から受け継いだ政治的手腕を発揮し、孫権の側近として重要な政策決定に参与した。
特に人事面での全琮の意見は重視され、多くの優秀な人材の登用に関与した。全琮は人を見る目に優れており、後に呉の重要な将軍となる人物を早い段階で見出すことがあった。
また、呉の内政においても重要な役割を担った。特に江南地域の開発と統治において、全琮の経験と知識が活用された。父の全柔が築いた基盤を継承し、さらに発展させることに成功した。
孫権との関係
全琮と孫権の関係は、単なる君主と臣下の関係を超えた信頼関係だった。孫権は全琮の能力と忠誠心を深く信頼し、重要な軍事作戦や政治的決定において、全琮の意見を重視した。
孫権が晩年に後継者問題で悩んだ際も、全琮は冷静な判断で君主を支えた。孫権の息子たちの間での争いが激化する中、全琮は国家の安定を最優先に考え、適切な助言を行った。
全琮は忠臣である。その言葉には私心がない— 孫権の全琮評価
全氏一族の貢献
全琮の功績は、全氏一族全体の呉への貢献の一部である。父の全柔は呉の建国期から重要な役割を果たし、全琮はその伝統を継承して発展させた。また、全琮の息子である全懌・全儀も優秀な人材として呉に仕えた。
全氏一族は三代にわたって呉の重臣として活躍し、その忠誠心と能力は呉の朝廷で高く評価された。特に軍事面での貢献は顕著で、呉の国防力強化に大きく寄与した。
全琮は家族の伝統を重んじつつも、時代の変化に対応した新しい政策を提案することも多かった。この柔軟性と革新性が、全琮を単なる世襲の重臣以上の存在にしていた。
晩年と右大司馬就任(247-249年)
247年、全琮は右大司馬に任命された。これは呉の軍事組織における最高位の一つで、全琮の長年の功績に対する最高の栄誉だった。右大司馬として、全琮は呉の軍事政策全般を統括する責任を負った。
晩年の全琮は、後進の指導にも力を注いだ。多くの若い将軍たちに軍事戦術や政治の要諦を教え、呉の将来を担う人材の育成に努めた。このような教育者としての側面も、全琮の重要な功績の一つである。
249年、全琮は病により世を去った。その死は呉の朝廷に大きな衝撃を与え、孫権をはじめ多くの同僚や部下が深く悲しんだ。全琮の葬儀は盛大に行われ、その功績が改めて讃えられた。
人物評価と後世への影響
全琮は呉の歴史において、優秀な軍人であると同時に有能な政治家でもあった稀有な人物として評価されている。その忠誠心と能力は、呉の発展に欠くことのできない要素だった。
史家からの評価では、全琮は「文武両道の理想的な臣下」とされている。軍事的才能だけでなく、政治的判断力、人格的魅力、そして家族への忠実さなど、多方面での優秀さが認められている。
全琮は呉の柱石である。その功績は父の全柔に劣らず、呉の繁栄に不可欠な存在であった— 後世の史家の評価
全琮の死後、全氏一族は徐々に勢力を失っていったが、全琮が築いた軍事・政治システムは呉の滅亡まで機能し続けた。これは全琮の制度設計能力の高さを示すものである。