名門孫氏の嫡男
孫策(175年 - 200年)、字は伯符。呉郡富春県の出身で、孫堅の長男として生まれる。父は「江東の虎」と呼ばれた猛将で、反董卓連合で活躍した。
幼少期から武勇に優れ、父孫堅と共に各地を転戦。17歳の時、父が劉表配下の黄祖との戦いで戦死すると、一族の長として困難な状況に直面した。
父の遺志を継ぐ
192年、父孫堅が戦死すると、孫策は17歳で一族を率いることになった。しかし、軍勢は離散し、基盤となる領地もなかった。
父の志を継ぎ、必ずや江東に覇を唱えん— 孫策
孫策は母や弟たちを連れて、父の盟友だった袁術の下に身を寄せた。この時期は雌伏の時だったが、後の飛躍への重要な準備期間となった。
袁術配下での雌伏
袁術の下で、孫策は徐々に実力を蓄えていった。袁術も孫策の才能を認め、重要な戦いで先鋒を任せるようになった。
初期の戦功
193年から194年にかけて、孫策は袁術軍の先鋒として各地で戦功を挙げた。特に廬江攻略では、その勇猛さで敵を圧倒した。
- 九江の戦い: 陸康を攻め、勇戦して名を挙げる
- 廬江攻略: 劉勲を破り、その領地を制圧
- 横江の戦い: 張英を討ち取り、武名を轟かせる
独立への布石
袁術は孫策の功績を認めながらも、その才能を恐れ、約束した兵を与えなかった。孫策は次第に独立を決意する。
袁公路(袁術)は約束を守らない。我は自力で父の基業を回復する— 孫策
195年、孫策は袁術から伝国の玉璽と引き換えに兵3000を得て、江東平定に乗り出した。これが独立への第一歩となった。
江東平定 - 電撃戦の連続
195年から199年のわずか5年間で、孫策は江東六郡を次々と平定し、一大勢力を築き上げた。その進撃の速さは「疾風怒濤」と形容された。
劉繇との戦い
195年、孫策は最初の標的として揚州刺史・劉繇を攻撃した。曲阿を拠点とする劉繇は、江東の有力者だった。
戦闘 | 相手 | 結果 |
---|---|---|
牛渚の戦い | 劉繇配下 | 圧勝・渡河成功 |
秣陵の戦い | 薛礼・樊能 | 両将を討ち取る |
曲阿攻略 | 劉繇本軍 | 劉繇敗走 |
孫策は連戦連勝し、劉繇を豫章へ追いやった。この勝利により、江東進出の橋頭堡を確保した。
呉郡・会稽の制圧
196年、孫策は故郷である呉郡に進軍。太守の許貢を破り、続いて会稽郡も制圧した。
- 呉郡平定: 許貢を破り、故郷を奪還
- 会稽攻略: 王朗を降伏させ、江南の要地を確保
- 人材登用: 張昭、張紘など名士を招聘
江東統一の完成
197年から199年にかけて、孫策は残る郡県を次々と平定し、江東六郡(丹陽、呉、会稽、豫章、廬陵、廬江)を統一した。
項籍(項羽)の勇を以てしても、孫策には及ばない— 当時の評価
この急速な領土拡大により、孫策は「小覇王」の称号を得た。わずか25歳にして、後の呉の基礎となる大領土を築き上げた。
周瑜との友情
孫策と周瑜の友情は、三国志でも最も美しい友情物語の一つとして知られる。二人は「断金の交わり」と呼ばれる固い絆で結ばれていた。
運命の出会い
孫策と周瑜は同い年で、共に美男子として知られた。初めて会った時から意気投合し、生涯の友となった。
公瑾(周瑜)を得たことは、我が事業を成就させる天の配剤である— 孫策
共に戦った日々
周瑜は孫策の江東平定に参加し、軍師として重要な役割を果たした。二人は完璧なコンビネーションで敵を打ち破った。
- 軍事面: 孫策が前線で戦い、周瑜が戦略を立案
- 政治面: 孫策が決断し、周瑜が実務を補佐
- 人材登用: 共に人物を見極め、適材適所に配置
政治戦略と外交
孫策は武勇だけでなく、優れた政治感覚も持っていた。特に曹操との関係維持は巧みだった。
曹操との駆け引き
196年、曹操が献帝を擁立すると、孫策は表面上これに従い、討逆将軍に任じられた。しかし、実質的には独立勢力として行動した。
曹操と今争えば、両者共に疲弊する。時機を待つべきだ— 孫策
内政の充実
孫策は占領地の統治にも力を入れた。特に人材登用と農業振興に注力した。
- 文官の登用: 張昭を師とし、張紘を参謀として重用
- 農業政策: 荒廃した土地を開墾し、生産力を向上
- 商業振興: 長江の水運を活用した交易を促進
- 軍制改革: 精鋭部隊を編成し、訓練を徹底
北伐計画と野望
199年、江東を統一した孫策は、次なる目標として中原進出を計画した。
許都攻略計画
200年、官渡の戦いで曹操と袁紹が対峙している隙を突いて、孫策は許都攻略を計画した。
今こそ好機。曹操が袁紹と戦っている間に、許都を襲撃し、天子を奉じて天下に号令せん— 孫策
孫策は密かに軍備を整え、陳登と連携して徐州から許都への進軍ルートを確保しようとした。この計画が実現すれば、歴史は大きく変わっていたかもしれない。
突然の最期
200年4月、北伐を目前にして、孫策は許貢の食客に襲撃され、重傷を負った。
襲撃事件
孫策が少数の供回りと狩りに出かけた際、許貢の旧臣三人に襲撃された。孫策は勇戦したが、顔面に毒矢を受けた。
最期の時
重傷を負った孫策は、自分の命が長くないことを悟り、後事を整理した。
挙江東之衆、決機於両陣之間、與天下争衡、卿不如我。挙賢任能、各尽其心、以保江東、我不如卿— 孫策が孫権に残した言葉
孫策は弟の孫権を後継者に指名し、張昭や周瑜に補佐を託した。200年5月5日、孫策は26歳の若さで世を去った。
- 孫権への遺言: 「戦では私に及ばないが、人材を用いる点では君の方が優れている」
- 周瑜への託命: 「弟を頼む。君と共に江東を守ってほしい」
- 張昭への依頼: 「内政は貴方に任せる。孫権を導いてほしい」
人物像と評価
孫策は勇猛でありながら、人情味あふれる魅力的な人物だった。
性格と特徴
- 豪放磊落: 細かいことにこだわらない大らかな性格
- 勇猛果敢: 常に先頭に立って戦う勇将
- 情に厚い: 部下や友人を大切にし、恩義を重んじる
- 決断力: 迅速な判断と行動力
- カリスマ性: 人を引きつける天性の魅力
しかし、その豪胆さが時に軽率となり、最期は少人数での外出中に襲撃されるという結果を招いた。
歴史的評価
人物 | 評価 |
---|---|
曹操 | 「獅子児、惜しむべし」 |
郭嘉 | 「孫策は軽率、必ず刺客に倒れる」(予言が的中) |
陳寿 | 「英気傑済、猛鋭冠世」 |
裴松之 | 「孫策の武勇、古今無双」 |
孫策は「創業の英雄」として、短い生涯ながら後世に大きな影響を与えた。彼が築いた基盤があったからこそ、弟の孫権が呉を建国できた。
孫策の遺産
孫策の死は江東に大きな衝撃を与えたが、彼が残したものは計り知れない。
呉の基礎
- 領土: 江東六郡という広大な領土
- 人材: 周瑜、張昭、程普など優秀な文武の臣
- 軍事力: 精強な水軍と陸軍
- 経済基盤: 豊かな江南の生産力
- 統治システム: 効率的な行政機構
孫権はこれらの遺産を引き継ぎ、さらに発展させて呉を建国した。孫策なくして三国時代の呉は存在しなかった。
もし孫策が生きていたら
歴史家の間では、孫策が長生きしていた場合の歴史の展開がしばしば議論される。
- 許都攻略: 計画通り実行されれば、献帝を手中に収めた可能性
- 赤壁の戦い: 孫策が指揮すれば、より決定的な勝利
- 北伐: 曹操との全面対決で歴史が変わった可能性
- 天下統一: その武勇と人望で、統一の可能性もあった
孫策が十年長く生きていれば、天下の形勢は全く違っていただろう— 後世の歴史家
文化的影響
孫策は後世の文学作品や民間伝承で、理想的な若き英雄として描かれ続けている。
「江東の小覇王」という称号は、若くして大業を成し遂げた英雄の代名詞となった。その生き様は、現代でも多くの人々に勇気と希望を与えている。