孫策 - 江東の小覇王

孫策 - 江東の小覇王

「江東の小覇王」と称された孫策。わずか26歳で世を去るまでに江東六郡を平定し、後の呉の基礎を築いた。その勇猛さは項羽に比肩され、親友周瑜と共に江南に覇を唱えた短くも輝かしい生涯。

名門孫氏の嫡男

孫策(175年 - 200年)、字は伯符。呉郡富春県の出身で、孫堅の長男として生まれる。父は「江東の虎」と呼ばれた猛将で、反董卓連合で活躍した。

史実: 孫策の容貌は美しく、笑顔が魅力的だったため「孫郎」と呼ばれて人々から愛された。この美貌は弟の孫権にも受け継がれ、呉の君主は代々美男子として知られた。

幼少期から武勇に優れ、父孫堅と共に各地を転戦。17歳の時、父が劉表配下の黄祖との戦いで戦死すると、一族の長として困難な状況に直面した。

父の遺志を継ぐ

192年、父孫堅が戦死すると、孫策は17歳で一族を率いることになった。しかし、軍勢は離散し、基盤となる領地もなかった。

父の志を継ぎ、必ずや江東に覇を唱えん— 孫策

孫策は母や弟たちを連れて、父の盟友だった袁術の下に身を寄せた。この時期は雌伏の時だったが、後の飛躍への重要な準備期間となった。

袁術配下での雌伏

袁術の下で、孫策は徐々に実力を蓄えていった。袁術も孫策の才能を認め、重要な戦いで先鋒を任せるようになった。

初期の戦功

193年から194年にかけて、孫策は袁術軍の先鋒として各地で戦功を挙げた。特に廬江攻略では、その勇猛さで敵を圧倒した。

  • 九江の戦い: 陸康を攻め、勇戦して名を挙げる
  • 廬江攻略: 劉勲を破り、その領地を制圧
  • 横江の戦い: 張英を討ち取り、武名を轟かせる
史実: この時期、周瑜と親交を深めた。周瑜は孫策の才能を見抜き、「孫策こそ天下の英雄」と評価していた。

独立への布石

袁術は孫策の功績を認めながらも、その才能を恐れ、約束した兵を与えなかった。孫策は次第に独立を決意する。

袁公路(袁術)は約束を守らない。我は自力で父の基業を回復する— 孫策

195年、孫策は袁術から伝国の玉璽と引き換えに兵3000を得て、江東平定に乗り出した。これが独立への第一歩となった。

江東平定 - 電撃戦の連続

195年から199年のわずか5年間で、孫策は江東六郡を次々と平定し、一大勢力を築き上げた。その進撃の速さは「疾風怒濤」と形容された。

劉繇との戦い

195年、孫策は最初の標的として揚州刺史・劉繇を攻撃した。曲阿を拠点とする劉繇は、江東の有力者だった。

戦闘相手結果
牛渚の戦い劉繇配下圧勝・渡河成功
秣陵の戦い薛礼・樊能両将を討ち取る
曲阿攻略劉繇本軍劉繇敗走

孫策は連戦連勝し、劉繇を豫章へ追いやった。この勝利により、江東進出の橋頭堡を確保した。

呉郡・会稽の制圧

196年、孫策は故郷である呉郡に進軍。太守の許貢を破り、続いて会稽郡も制圧した。

史実: 孫策は占領地で寛大な統治を行い、降伏した敵将も積極的に登用した。この方針により、多くの人材が集まった。
  • 呉郡平定: 許貢を破り、故郷を奪還
  • 会稽攻略: 王朗を降伏させ、江南の要地を確保
  • 人材登用: 張昭、張紘など名士を招聘

江東統一の完成

197年から199年にかけて、孫策は残る郡県を次々と平定し、江東六郡(丹陽、呉、会稽、豫章、廬陵、廬江)を統一した。

項籍(項羽)の勇を以てしても、孫策には及ばない— 当時の評価

この急速な領土拡大により、孫策は「小覇王」の称号を得た。わずか25歳にして、後の呉の基礎となる大領土を築き上げた。

周瑜との友情

孫策と周瑜の友情は、三国志でも最も美しい友情物語の一つとして知られる。二人は「断金の交わり」と呼ばれる固い絆で結ばれていた。

運命の出会い

孫策と周瑜は同い年で、共に美男子として知られた。初めて会った時から意気投合し、生涯の友となった。

史実: 孫策と周瑜は義兄弟の契りを結び、互いの妻も姉妹(大喬と小喬)だった。この「二喬」は絶世の美女として有名である。
公瑾(周瑜)を得たことは、我が事業を成就させる天の配剤である— 孫策

共に戦った日々

周瑜は孫策の江東平定に参加し、軍師として重要な役割を果たした。二人は完璧なコンビネーションで敵を打ち破った。

  • 軍事面: 孫策が前線で戦い、周瑜が戦略を立案
  • 政治面: 孫策が決断し、周瑜が実務を補佐
  • 人材登用: 共に人物を見極め、適材適所に配置

政治戦略と外交

孫策は武勇だけでなく、優れた政治感覚も持っていた。特に曹操との関係維持は巧みだった。

曹操との駆け引き

196年、曹操が献帝を擁立すると、孫策は表面上これに従い、討逆将軍に任じられた。しかし、実質的には独立勢力として行動した。

曹操と今争えば、両者共に疲弊する。時機を待つべきだ— 孫策
史実: 曹操は孫策の才能を高く評価し、「獅子児」と呼んだ。同時に、その将来を警戒していたとされる。

内政の充実

孫策は占領地の統治にも力を入れた。特に人材登用と農業振興に注力した。

  • 文官の登用: 張昭を師とし、張紘を参謀として重用
  • 農業政策: 荒廃した土地を開墾し、生産力を向上
  • 商業振興: 長江の水運を活用した交易を促進
  • 軍制改革: 精鋭部隊を編成し、訓練を徹底

北伐計画と野望

199年、江東を統一した孫策は、次なる目標として中原進出を計画した。

許都攻略計画

200年、官渡の戦いで曹操と袁紹が対峙している隙を突いて、孫策は許都攻略を計画した。

今こそ好機。曹操が袁紹と戦っている間に、許都を襲撃し、天子を奉じて天下に号令せん— 孫策

孫策は密かに軍備を整え、陳登と連携して徐州から許都への進軍ルートを確保しようとした。この計画が実現すれば、歴史は大きく変わっていたかもしれない。

突然の最期

200年4月、北伐を目前にして、孫策は許貢の食客に襲撃され、重傷を負った。

襲撃事件

孫策が少数の供回りと狩りに出かけた際、許貢の旧臣三人に襲撃された。孫策は勇戦したが、顔面に毒矢を受けた。

史実: 史実では、孫策は傷が原因で数日後に死去した。襲撃者は、孫策に殺された許貢の食客が仇討ちのために行ったとされる。
演義: 演義では于吉という道士を殺したため、その怨霊に祟られたという超自然的な要素が加わっているが、これは創作である。

最期の時

重傷を負った孫策は、自分の命が長くないことを悟り、後事を整理した。

挙江東之衆、決機於両陣之間、與天下争衡、卿不如我。挙賢任能、各尽其心、以保江東、我不如卿— 孫策が孫権に残した言葉

孫策は弟の孫権を後継者に指名し、張昭や周瑜に補佐を託した。200年5月5日、孫策は26歳の若さで世を去った。

  • 孫権への遺言: 「戦では私に及ばないが、人材を用いる点では君の方が優れている」
  • 周瑜への託命: 「弟を頼む。君と共に江東を守ってほしい」
  • 張昭への依頼: 「内政は貴方に任せる。孫権を導いてほしい」

人物像と評価

孫策は勇猛でありながら、人情味あふれる魅力的な人物だった。

性格と特徴

  • 豪放磊落: 細かいことにこだわらない大らかな性格
  • 勇猛果敢: 常に先頭に立って戦う勇将
  • 情に厚い: 部下や友人を大切にし、恩義を重んじる
  • 決断力: 迅速な判断と行動力
  • カリスマ性: 人を引きつける天性の魅力

しかし、その豪胆さが時に軽率となり、最期は少人数での外出中に襲撃されるという結果を招いた。

歴史的評価

人物評価
曹操「獅子児、惜しむべし」
郭嘉「孫策は軽率、必ず刺客に倒れる」(予言が的中)
陳寿「英気傑済、猛鋭冠世」
裴松之「孫策の武勇、古今無双」

孫策は「創業の英雄」として、短い生涯ながら後世に大きな影響を与えた。彼が築いた基盤があったからこそ、弟の孫権が呉を建国できた。

孫策の遺産

孫策の死は江東に大きな衝撃を与えたが、彼が残したものは計り知れない。

呉の基礎

  • 領土: 江東六郡という広大な領土
  • 人材: 周瑜、張昭、程普など優秀な文武の臣
  • 軍事力: 精強な水軍と陸軍
  • 経済基盤: 豊かな江南の生産力
  • 統治システム: 効率的な行政機構

孫権はこれらの遺産を引き継ぎ、さらに発展させて呉を建国した。孫策なくして三国時代の呉は存在しなかった。

もし孫策が生きていたら

歴史家の間では、孫策が長生きしていた場合の歴史の展開がしばしば議論される。

  • 許都攻略: 計画通り実行されれば、献帝を手中に収めた可能性
  • 赤壁の戦い: 孫策が指揮すれば、より決定的な勝利
  • 北伐: 曹操との全面対決で歴史が変わった可能性
  • 天下統一: その武勇と人望で、統一の可能性もあった
孫策が十年長く生きていれば、天下の形勢は全く違っていただろう— 後世の歴史家

文化的影響

孫策は後世の文学作品や民間伝承で、理想的な若き英雄として描かれ続けている。

演義: 『三国志演義』では、孫策と周瑜の友情、大喬・小喬との恋愛が美しく描かれ、悲劇的な早世が読者の涙を誘う。

「江東の小覇王」という称号は、若くして大業を成し遂げた英雄の代名詞となった。その生き様は、現代でも多くの人々に勇気と希望を与えている。