曹洪 - 曹操を救った一族の将

曹洪 - 曹操を救った一族の将

曹操の従弟として忠義を貫き、窮地に立たされた曹操を命がけで救った英雄。滎陽での命がけの救出劇は三国志屈指の忠義の美談として語り継がれている。武勇に優れ、魏の建国を支えた重要な人物である。

出自と若き日

曹洪(?~232年)は、曹操の父曹嵩の弟の子、つまり曹操の従弟にあたる。字は子廉といい、沛国譙県(現在の安徽省亳州市)の出身である。

若い頃から武芸に秀で、特に騎馬戦に優れていた。曹操が反董卓連合軍に参加した際から行動を共にし、常に曹操の側近として活躍した。一族としての責任感も強く、曹操を支える重要な存在となった。

滎陽での命がけの救出劇

曹洪の最も有名な功績は、192年の滎陽での出来事である。この時、曹操は董卓の部下である徐栄との戦いで大敗を喫し、馬を失って徒歩で逃げる羽目になった。

絶体絶命の危機に陥った曹操を見た曹洪は、躊躇なく自分の愛馬を曹操に譲り、自らは徒歩で敵中を突破した。この勇気ある行動により、曹操は九死に一生を得ることができた。

天下に曹公がいなければ、私の存在意義もありません— 曹洪の曹操への献身の言葉

武将としての活躍

曹洪は単なる親族というだけでなく、優秀な武将としても活躍した。特に騎兵の指揮に長け、多くの戦場で先鋒を務めた。その勇猛さと統率力は敵味方問わず知られており、曹操軍の主力将軍の一人として重宝された。

官渡の戦いでは袁紹軍との戦いで功績を上げ、特に烏巣の奇襲作戦では重要な役割を果たした。赤壁の戦い後の華容道での撤退戦では、混乱する軍を統制し、曹操の安全な撤退を支援した。

関中征伐では馬超・韓遂との戦いで活躍し、曹操の西方進出に大きく貢献した。潼関の戦いでは馬超軍の猛攻に対し、勇敢に戦い抜いた。その後の渭水での戦いでも、騎兵戦術を駆使して敵軍を翻弄した。

史実: 曹洪の軍事的才能は、単なる武勇だけでなく、戦術眼にも優れていた。特に騎兵の運用については当代一流の技術を持っており、多くの若い将軍たちの手本となった。

魏王朝での地位と晩年

魏王朝が成立すると、曹洪は衛将軍に任命され、都亭侯に封じられた。長年の功績が認められ、一族の中でも重要な地位を占めた。しかし、曹丕が皇帝になった後、一時期失脚の危機に瀕した。

これは曹丕が若い頃に曹洪から金を借りようとして断られたことを根に持っていたためとされている。曹洪は質素倹約を旨とし、無駄な出費を嫌う性格であったが、これが曹丕の恨みを買う結果となった。

曹洪は貪欲で、金に執着する— 曹丕の曹洪への評価

最終的には卞太后(曹操の妻)の取りなしにより、死罪は免れたが、爵位を奪われることとなった。その後、232年に病死するまで、比較的静かな晩年を送った。