関羽雲長 - 義の武将、美髯公

関羽雲長 - 義の武将、美髯公

劉備に仕えた蜀漢の名将。その武勇は天下に轟き、忠義の精神は後世まで語り継がれる。死後は関帝として神格化され、中国全土で武神・商売の神として信仰を集める伝説的武将。

出生と劉備との出会い

関羽(160年頃 - 220年)は、後漢末期から三国時代の武将。字は雲長(本字は長生とも)。河東郡解県(現在の山西省運城市)の出身。劉備・張飛と共に蜀漢建国の功臣となり、後世では武神として崇拝された。

史実: 関羽の出生年は明確でないが、張飛より年上で劉備より年下とされる。故郷で人を殺して逃亡中に劉備と出会ったという説があるが、詳細は不明である。

184年、黄巾の乱が起こると、関羽は涿郡で劉備、張飛と出会う。劉備の人柄に惚れ込み、生涯の主君と定めた。以来、劉備と寝食を共にし、大勢の前では終日立って劉備を護衛した。

演義: 『三国志演義』で有名な「桃園の誓い」は史実には記載がない。ただし、関羽と張飛が劉備に対して「兄弟のように」仕えていたことは陳寿も記している。

容貌と武器

関羽は堂々たる体躯と美しい髭で知られ、「美髯公」と呼ばれた。その容貌は後世の関羽像の基となっている。

  • 身長: 九尺(約207cm)という長身
  • 髭: 長さ二尺(約46cm)の美しい髭を持つ
  • 顔: 重棗(熟した棗)のような赤い顔
  • 武器: 青龍偃月刀(演義での設定、史実では矛を使用)
  • 愛馬: 赤兎馬(呂布の死後、曹操から贈られた)
史実: 青龍偃月刀は宋代以降の武器で、三国時代には存在しなかった。史実の関羽は矛を使っていたとされる。赤兎馬については『三国志』にも記載がある。

初期の武功(184-200年)

関羽は劉備の挙兵当初から従い、各地を転戦した。その武勇は早くから知られ、張飛と並んで「万人の敵」と称された。

黄巾賊との戦い

184年の黄巾の乱では、劉備軍の主力として活躍。張飛と共に先鋒を務め、多くの戦功を立てた。

演義: 演義では華雄を斬る場面が有名だが、史実では華雄は孫堅に討たれている。関羽の初期の戦功の多くは演義の創作である。

徐州時代

194年、劉備が徐州牧となると、関羽は別部司馬として下邳を守備。196年、呂布に徐州を奪われた際も、劉備と共に小沛に退いた。

出来事関羽の役割
194年劉備、徐州牧就任別部司馬として下邳守備
196年呂布に徐州を奪われる劉備と共に小沛へ
198年呂布に敗れ劉備は曹操へ下邳で降伏
200年曹操配下で活動白馬の戦いで顔良を斬る

曹操配下時代(200年)

200年、劉備が袁紹の下へ逃れた後、関羽は一時的に曹操に降った。この期間は短かったが、関羽の忠義を示す重要な出来事となった。

史実: 関羽が曹操に降ったのは史実である。曹操は関羽を偏将軍に任じ、漢寿亭侯に封じた。この爵位は関羽が生涯使い続けた。

白馬の戦いで、関羽は袁紹軍の猛将・顔良を討ち取る大功を立てた。これは万軍の中で敵将を討ち取るという、当時としても稀有な武功であった。

羽、良の麾蓋を望み見て、馬を策して良を刺し、その首を斬って還る。紹の諸将、これを当たる能わず— 『三国志』関羽伝

しかし関羽は劉備への忠義を貫き、その所在を知ると、曹操の下を去って劉備の下へ向かった。曹操は関羽の忠義に感服し、追撃を禁じたという。

演義: 演義では「千里走単騎」として、五関を突破し六将を斬る壮大な逃避行が描かれるが、これは創作。実際には曹操は関羽の出発を黙認した。

荊州の守護者(208-219年)

赤壁の戦い後、関羽は荊州の守備を任され、事実上の荊州の支配者となった。この時期、関羽の武名は天下に轟いた。

赤壁後の荊州統治

208年の赤壁の戦い後、劉備が益州攻略に向かうと、関羽は諸葛亮と共に荊州を守備。後に単独で荊州の軍事を統括することになった。

  • 江陵守備: 要衝・江陵を拠点として荊州を統治
  • 水軍の整備: 長江の水軍を編成し、水戦能力を向上
  • 対呉外交: 孫権との同盟関係を維持しつつ、領土問題で対立
  • 北方警戒: 曹魏の南下に備えて防衛体制を構築

単刀赴会(215年)

215年、荊州の帰属を巡って孫権と対立。魯粛との会談に、関羽は少数の供回りだけで臨んだ。

史実: 単刀赴会は史実だが、実際に単身で乗り込んだのは魯粛の方であった。関羽は武力を背景に交渉を有利に進めた。
国家の大事は実力にあり、言葉にあらず— 関羽(単刀会での発言)

この会談により、荊州は湘水を境に東西に分割されることになった。関羽は荊州の西部(南郡、武陵、零陵)を保持した。

威名の絶頂期

この時期の関羽は、曹操からも孫権からも恐れられる存在となっていた。

勢力関羽への評価対応
曹操「熊虎の将」と評価懐柔を図るも失敗
孫権脅威と認識婚姻同盟を打診
劉備最も信頼する将荊州の全権を委任

孫権が自身の息子と関羽の娘との縁談を申し入れた際、関羽は「虎の娘を犬の子にやれるか」と拒絶。これが後の呉との関係悪化の一因となった。

史実: 関羽が孫権の縁談を侮辱的に断ったのは史実である。この傲慢な態度が、後の荊州陥落の遠因となった。

樊城の戦いと水淹七軍(219年)

219年、関羽は北伐を開始し、曹仁が守る樊城を攻撃。この戦いで関羽の武名は最高潮に達した。

北伐の開始

劉備が漢中王に即位すると、関羽は前将軍に任命された。これを機に、関羽は宿願の北伐を開始した。

  • 戦略目標: 樊城・襄陽を攻略し、中原への道を開く
  • 兵力: 精鋭3万を率いて北上
  • 初期戦果: 曹仁を樊城に包囲

水淹七軍 - 関羽の絶頂

曹操は于禁を大将、龐徳を副将として、七軍3万の援軍を派遣。しかし、秋の長雨で漢水が氾濫し、于禁の軍は水没した。

史実: 水淹七軍は史実である。関羽は水軍を使って于禁軍を攻撃し、3万の兵を降伏させた。これは関羽の軍事的頂点となった。
羽、威震華夏(関羽の威は華夏を震わす)— 『三国志』関羽伝

于禁は降伏し、龐徳は最後まで抵抗したが捕らえられて斬られた。この大勝利により、関羽の名声は中原にまで轟き、曹操は一時、都の移転を検討したほどだった。

将軍兵力結果
于禁七軍3万降伏
龐徳副将処刑
曹仁樊城守備軍籠城継続

形勢の逆転

関羽の快進撃に危機感を抱いた曹操と孫権は密かに同盟。徐晃の援軍到着と、呂蒙の荊州奇襲により、関羽は前後から挟撃される形となった。

  • 徐晃の反撃: 新手の援軍が到着し、関羽軍を撃退
  • 呂蒙の奇襲: 背後から荊州を攻撃、江陵を占領
  • 士気の崩壊: 家族が呉に捕らえられ、将兵が動揺
史実: 呂蒙は病気と称して陸遜と交代し、関羽の警戒を解いた。その後、商船に偽装した軍船で長江を遡り、電撃的に江陵を占領した。

麦城の悲劇と最期(219-220年)

荊州を失った関羽は退路を断たれ、わずかな兵と共に麦城に立て籠もった。最後まで劉備への忠義を貫いたが、ついに呉軍に捕らえられた。

麦城への敗走

樊城から撤退した関羽は、荊州がすでに呉の手に落ちたことを知る。部下の多くが家族のいる呉に降伏し、関羽の軍は瓦解した。

吾、漢の将軍なり。豈に呉の犬に降らんや— 関羽(降伏勧告への返答)

関羽は息子の関平、部将の周倉らわずかな手勢と共に麦城に籠城。援軍を待ったが、救援は来なかった。

演義: 演義では廖化が援軍を求めに成都へ向かったとされるが、時間的に不可能である。実際には関羽は完全に孤立していた。

捕縛と最期

219年12月、関羽は麦城を脱出し、益州へ逃れようとしたが、臨沮で呉将の潘璋配下の馬忠に捕らえられた。

史実: 関羽は息子の関平と共に捕らえられ、220年1月(建安24年12月)に処刑された。享年約60歳。孫権は関羽を懐柔しようとしたが、関羽は拒絶したという。

孫権は関羽の首を曹操に送り、曹操は諸侯の礼をもって洛陽に葬った。体は孫権が当陽に葬った。

埋葬地部位葬った人物
洛陽曹操
当陽孫権
成都衣冠塚劉備

関羽の死の影響

関羽の死は蜀漢に甚大な影響を与えた。荊州を失い、天下三分の計は崩壊した。

  • 劉備の復讐戦: 激怒した劉備は呉征伐を強行、夷陵で大敗
  • 張飛の死: 呉征伐前に部下に暗殺される
  • 蜀漢の衰退: 荊州喪失により、北伐の拠点を失う
  • 三国鼎立の固定化: 以後、三国の境界はほぼ固定
史実: 関羽の死から1年後に曹操が死去、その後劉備も夷陵の敗戦後に死去。関羽の死は三国時代の転換点となった。

人物像と評価

関羽は武勇と忠義で知られたが、同時に傲慢な一面も持っていた。その複雑な人物像が、後世の関羽信仰の基となった。

性格と特徴

  • 忠義: 劉備への絶対的な忠誠心。曹操の厚遇も拒絶
  • 武勇: 万人の敵と称される戦闘力
  • 傲慢: 士大夫を軽んじ、部下に厳しすぎた
  • 義理堅さ: 恩義を重んじ、約束を守る
  • 学問好き: 春秋左氏伝を愛読
羽、士大夫に対しては傲慢なるも、兵卒に対しては恩愛あり— 陳寿『三国志』

軍事的才能

関羽は個人の武勇だけでなく、軍の指揮官としても優れた能力を持っていた。

能力評価具体例
個人武勇最高級顔良を万軍の中で討ち取る
軍略優秀水淹七軍で于禁を破る
統率力良好荊州を10年以上統治
外交問題あり孫権との関係を悪化させる
戦略眼不足二正面作戦の危険を軽視

同時代人の評価

関羽は敵味方を問わず、その武勇を認められていた。

  • 諸葛亮: 「美髯公は勇猛だが、剛すぎて自用する」
  • 曹操: 「関羽は義士である」
  • 程昱: 「関羽・張飛は万人の敵」
  • 周瑜: 「熊虎の将」
  • 呂蒙: 「勇猛だが、驕りやすい」
史実: 諸葛亮は関羽と馬超の性格の違いを理解し、関羽のプライドを傷つけないよう、手紙で「馬超は張飛と同等だが、美髯公には及ばない」と書いて関羽を喜ばせた。

神格化と関帝信仰

関羽は死後、次第に神格化され、「関帝」「関聖帝君」として中国全土で信仰される神となった。

死後の追贈

歴代王朝は関羽に様々な称号を追贈し、その地位は時代と共に上昇した。

時代称号授与者
蜀漢壮繆侯劉禅(260年)
忠恵公徽宗(1102年)
協天大帝神宗(1615年)
忠義神武関聖大帝光緒帝(1879年)

関帝廟と信仰

関帝廟は中国全土、さらには華僑社会にまで広がり、関羽は武神・商売の神として崇拝された。

  • 武神: 軍人・武術家の守護神
  • 財神: 商人の守護神、義理と信用の象徴
  • 文神: 春秋を愛読したことから、学問の神としても
  • 三教共通: 儒教・道教・仏教すべてで崇拝
史実: 関帝廟は清代には全国に数万カ所存在し、孔子廟を上回る数だった。現在も中華圏では広く信仰されている。

文化への影響

関羽は文学、演劇、美術など、中国文化のあらゆる分野に影響を与えた。

  • 京劇: 紅臉(赤い隈取り)の代表的人物
  • 三国志演義: 五関斬六将など、多くの名場面の主人公
  • 慣用句: 「関公の前で大刀を振るう」(釈迦に説法)
  • 美術: 関羽像は中国絵画の重要な題材

史実と演義の比較

『三国志演義』では関羽は完璧な英雄として描かれるが、史実とは異なる部分も多い。

項目史実演義
桃園の誓い記録なし劉備・張飛と義兄弟の契り
華雄斬り孫堅が討つ温酒斬華雄の名場面
五関突破曹操が通行を許可六将を斬って突破
赤兎馬史実より劇的に描写
青龍偃月刀矛を使用82斤の大刀
単刀赴会魯粛が単身で来訪関羽が単身で赴く
華佗の治療時期が合わない骨を削る手術の逸話
荊州失陥傲慢さが原因の一つ呉の裏切りを強調

史実の関羽

史実の関羽は確かに優れた武将だったが、欠点も持つ人間的な存在だった。

史実: 陳寿は関羽を「剛であり自ら用い、短を護る」と評している。つまり、頑固で自信過剰、短所を認めない性格だったということである。

しかし、その忠義心と武勇は確かなもので、だからこそ後世に神として崇められるようになったのである。

関羽の遺産

関羽が後世に残した影響は、単なる一武将の域を超えて、東アジア文化の重要な要素となっている。

子孫と一族

関羽の血統は蜀漢滅亡時にほぼ断絶したが、その名は永遠に残った。

  • 関平: 長男(養子説あり)、関羽と共に処刑
  • 関興: 次男、蜀漢に仕えて侍中となる
  • 関索: 三男(演義のみ)、史実では存在疑問
  • 関銀屏: 娘(民間伝承)、孫権の縁談を拒否
史実: 263年の蜀漢滅亡時、関羽の孫の関彝とその一族が龐会に殺害された。これは龐会の父・龐徳を関羽が処刑した恨みによるものだった。

現代における関羽

関羽は現代でも、特に華人社会で重要な存在であり続けている。

  • ビジネス: 多くの中華料理店や企業に関羽像が祀られる
  • 警察・軍隊: 香港警察など、正義の象徴として
  • 黒社会: 義理を重んじる象徴として(皮肉にも)
  • 大衆文化: 映画、ゲーム、漫画の人気キャラクター

関羽の「義」の精神は、時代を超えて人々に影響を与え続けている。その忠義と武勇の物語は、永遠に語り継がれるだろう。