出生と劉備との出会い
関羽(160年頃 - 220年)は、後漢末期から三国時代の武将。字は雲長(本字は長生とも)。河東郡解県(現在の山西省運城市)の出身。劉備・張飛と共に蜀漢建国の功臣となり、後世では武神として崇拝された。
184年、黄巾の乱が起こると、関羽は涿郡で劉備、張飛と出会う。劉備の人柄に惚れ込み、生涯の主君と定めた。以来、劉備と寝食を共にし、大勢の前では終日立って劉備を護衛した。
容貌と武器
関羽は堂々たる体躯と美しい髭で知られ、「美髯公」と呼ばれた。その容貌は後世の関羽像の基となっている。
- 身長: 九尺(約207cm)という長身
- 髭: 長さ二尺(約46cm)の美しい髭を持つ
- 顔: 重棗(熟した棗)のような赤い顔
- 武器: 青龍偃月刀(演義での設定、史実では矛を使用)
- 愛馬: 赤兎馬(呂布の死後、曹操から贈られた)
初期の武功(184-200年)
関羽は劉備の挙兵当初から従い、各地を転戦した。その武勇は早くから知られ、張飛と並んで「万人の敵」と称された。
黄巾賊との戦い
184年の黄巾の乱では、劉備軍の主力として活躍。張飛と共に先鋒を務め、多くの戦功を立てた。
徐州時代
194年、劉備が徐州牧となると、関羽は別部司馬として下邳を守備。196年、呂布に徐州を奪われた際も、劉備と共に小沛に退いた。
年 | 出来事 | 関羽の役割 |
---|---|---|
194年 | 劉備、徐州牧就任 | 別部司馬として下邳守備 |
196年 | 呂布に徐州を奪われる | 劉備と共に小沛へ |
198年 | 呂布に敗れ劉備は曹操へ | 下邳で降伏 |
200年 | 曹操配下で活動 | 白馬の戦いで顔良を斬る |
曹操配下時代(200年)
200年、劉備が袁紹の下へ逃れた後、関羽は一時的に曹操に降った。この期間は短かったが、関羽の忠義を示す重要な出来事となった。
白馬の戦いで、関羽は袁紹軍の猛将・顔良を討ち取る大功を立てた。これは万軍の中で敵将を討ち取るという、当時としても稀有な武功であった。
羽、良の麾蓋を望み見て、馬を策して良を刺し、その首を斬って還る。紹の諸将、これを当たる能わず— 『三国志』関羽伝
しかし関羽は劉備への忠義を貫き、その所在を知ると、曹操の下を去って劉備の下へ向かった。曹操は関羽の忠義に感服し、追撃を禁じたという。
荊州の守護者(208-219年)
赤壁の戦い後、関羽は荊州の守備を任され、事実上の荊州の支配者となった。この時期、関羽の武名は天下に轟いた。
赤壁後の荊州統治
208年の赤壁の戦い後、劉備が益州攻略に向かうと、関羽は諸葛亮と共に荊州を守備。後に単独で荊州の軍事を統括することになった。
- 江陵守備: 要衝・江陵を拠点として荊州を統治
- 水軍の整備: 長江の水軍を編成し、水戦能力を向上
- 対呉外交: 孫権との同盟関係を維持しつつ、領土問題で対立
- 北方警戒: 曹魏の南下に備えて防衛体制を構築
単刀赴会(215年)
215年、荊州の帰属を巡って孫権と対立。魯粛との会談に、関羽は少数の供回りだけで臨んだ。
国家の大事は実力にあり、言葉にあらず— 関羽(単刀会での発言)
この会談により、荊州は湘水を境に東西に分割されることになった。関羽は荊州の西部(南郡、武陵、零陵)を保持した。
威名の絶頂期
この時期の関羽は、曹操からも孫権からも恐れられる存在となっていた。
勢力 | 関羽への評価 | 対応 |
---|---|---|
曹操 | 「熊虎の将」と評価 | 懐柔を図るも失敗 |
孫権 | 脅威と認識 | 婚姻同盟を打診 |
劉備 | 最も信頼する将 | 荊州の全権を委任 |
孫権が自身の息子と関羽の娘との縁談を申し入れた際、関羽は「虎の娘を犬の子にやれるか」と拒絶。これが後の呉との関係悪化の一因となった。
樊城の戦いと水淹七軍(219年)
219年、関羽は北伐を開始し、曹仁が守る樊城を攻撃。この戦いで関羽の武名は最高潮に達した。
北伐の開始
劉備が漢中王に即位すると、関羽は前将軍に任命された。これを機に、関羽は宿願の北伐を開始した。
- 戦略目標: 樊城・襄陽を攻略し、中原への道を開く
- 兵力: 精鋭3万を率いて北上
- 初期戦果: 曹仁を樊城に包囲
水淹七軍 - 関羽の絶頂
曹操は于禁を大将、龐徳を副将として、七軍3万の援軍を派遣。しかし、秋の長雨で漢水が氾濫し、于禁の軍は水没した。
羽、威震華夏(関羽の威は華夏を震わす)— 『三国志』関羽伝
于禁は降伏し、龐徳は最後まで抵抗したが捕らえられて斬られた。この大勝利により、関羽の名声は中原にまで轟き、曹操は一時、都の移転を検討したほどだった。
将軍 | 兵力 | 結果 |
---|---|---|
于禁 | 七軍3万 | 降伏 |
龐徳 | 副将 | 処刑 |
曹仁 | 樊城守備軍 | 籠城継続 |
形勢の逆転
関羽の快進撃に危機感を抱いた曹操と孫権は密かに同盟。徐晃の援軍到着と、呂蒙の荊州奇襲により、関羽は前後から挟撃される形となった。
- 徐晃の反撃: 新手の援軍が到着し、関羽軍を撃退
- 呂蒙の奇襲: 背後から荊州を攻撃、江陵を占領
- 士気の崩壊: 家族が呉に捕らえられ、将兵が動揺
麦城の悲劇と最期(219-220年)
荊州を失った関羽は退路を断たれ、わずかな兵と共に麦城に立て籠もった。最後まで劉備への忠義を貫いたが、ついに呉軍に捕らえられた。
麦城への敗走
樊城から撤退した関羽は、荊州がすでに呉の手に落ちたことを知る。部下の多くが家族のいる呉に降伏し、関羽の軍は瓦解した。
吾、漢の将軍なり。豈に呉の犬に降らんや— 関羽(降伏勧告への返答)
関羽は息子の関平、部将の周倉らわずかな手勢と共に麦城に籠城。援軍を待ったが、救援は来なかった。
捕縛と最期
219年12月、関羽は麦城を脱出し、益州へ逃れようとしたが、臨沮で呉将の潘璋配下の馬忠に捕らえられた。
孫権は関羽の首を曹操に送り、曹操は諸侯の礼をもって洛陽に葬った。体は孫権が当陽に葬った。
埋葬地 | 部位 | 葬った人物 |
---|---|---|
洛陽 | 首 | 曹操 |
当陽 | 体 | 孫権 |
成都 | 衣冠塚 | 劉備 |
関羽の死の影響
関羽の死は蜀漢に甚大な影響を与えた。荊州を失い、天下三分の計は崩壊した。
- 劉備の復讐戦: 激怒した劉備は呉征伐を強行、夷陵で大敗
- 張飛の死: 呉征伐前に部下に暗殺される
- 蜀漢の衰退: 荊州喪失により、北伐の拠点を失う
- 三国鼎立の固定化: 以後、三国の境界はほぼ固定
人物像と評価
関羽は武勇と忠義で知られたが、同時に傲慢な一面も持っていた。その複雑な人物像が、後世の関羽信仰の基となった。
性格と特徴
- 忠義: 劉備への絶対的な忠誠心。曹操の厚遇も拒絶
- 武勇: 万人の敵と称される戦闘力
- 傲慢: 士大夫を軽んじ、部下に厳しすぎた
- 義理堅さ: 恩義を重んじ、約束を守る
- 学問好き: 春秋左氏伝を愛読
羽、士大夫に対しては傲慢なるも、兵卒に対しては恩愛あり— 陳寿『三国志』
軍事的才能
関羽は個人の武勇だけでなく、軍の指揮官としても優れた能力を持っていた。
能力 | 評価 | 具体例 |
---|---|---|
個人武勇 | 最高級 | 顔良を万軍の中で討ち取る |
軍略 | 優秀 | 水淹七軍で于禁を破る |
統率力 | 良好 | 荊州を10年以上統治 |
外交 | 問題あり | 孫権との関係を悪化させる |
戦略眼 | 不足 | 二正面作戦の危険を軽視 |
同時代人の評価
関羽は敵味方を問わず、その武勇を認められていた。
- 諸葛亮: 「美髯公は勇猛だが、剛すぎて自用する」
- 曹操: 「関羽は義士である」
- 程昱: 「関羽・張飛は万人の敵」
- 周瑜: 「熊虎の将」
- 呂蒙: 「勇猛だが、驕りやすい」
神格化と関帝信仰
関羽は死後、次第に神格化され、「関帝」「関聖帝君」として中国全土で信仰される神となった。
死後の追贈
歴代王朝は関羽に様々な称号を追贈し、その地位は時代と共に上昇した。
時代 | 称号 | 授与者 |
---|---|---|
蜀漢 | 壮繆侯 | 劉禅(260年) |
宋 | 忠恵公 | 徽宗(1102年) |
明 | 協天大帝 | 神宗(1615年) |
清 | 忠義神武関聖大帝 | 光緒帝(1879年) |
関帝廟と信仰
関帝廟は中国全土、さらには華僑社会にまで広がり、関羽は武神・商売の神として崇拝された。
- 武神: 軍人・武術家の守護神
- 財神: 商人の守護神、義理と信用の象徴
- 文神: 春秋を愛読したことから、学問の神としても
- 三教共通: 儒教・道教・仏教すべてで崇拝
文化への影響
関羽は文学、演劇、美術など、中国文化のあらゆる分野に影響を与えた。
- 京劇: 紅臉(赤い隈取り)の代表的人物
- 三国志演義: 五関斬六将など、多くの名場面の主人公
- 慣用句: 「関公の前で大刀を振るう」(釈迦に説法)
- 美術: 関羽像は中国絵画の重要な題材
史実と演義の比較
『三国志演義』では関羽は完璧な英雄として描かれるが、史実とは異なる部分も多い。
項目 | 史実 | 演義 |
---|---|---|
桃園の誓い | 記録なし | 劉備・張飛と義兄弟の契り |
華雄斬り | 孫堅が討つ | 温酒斬華雄の名場面 |
五関突破 | 曹操が通行を許可 | 六将を斬って突破 |
赤兎馬 | 史実 | より劇的に描写 |
青龍偃月刀 | 矛を使用 | 82斤の大刀 |
単刀赴会 | 魯粛が単身で来訪 | 関羽が単身で赴く |
華佗の治療 | 時期が合わない | 骨を削る手術の逸話 |
荊州失陥 | 傲慢さが原因の一つ | 呉の裏切りを強調 |
史実の関羽
史実の関羽は確かに優れた武将だったが、欠点も持つ人間的な存在だった。
しかし、その忠義心と武勇は確かなもので、だからこそ後世に神として崇められるようになったのである。
関羽の遺産
関羽が後世に残した影響は、単なる一武将の域を超えて、東アジア文化の重要な要素となっている。
子孫と一族
関羽の血統は蜀漢滅亡時にほぼ断絶したが、その名は永遠に残った。
- 関平: 長男(養子説あり)、関羽と共に処刑
- 関興: 次男、蜀漢に仕えて侍中となる
- 関索: 三男(演義のみ)、史実では存在疑問
- 関銀屏: 娘(民間伝承)、孫権の縁談を拒否
現代における関羽
関羽は現代でも、特に華人社会で重要な存在であり続けている。
- ビジネス: 多くの中華料理店や企業に関羽像が祀られる
- 警察・軍隊: 香港警察など、正義の象徴として
- 黒社会: 義理を重んじる象徴として(皮肉にも)
- 大衆文化: 映画、ゲーム、漫画の人気キャラクター
関羽の「義」の精神は、時代を超えて人々に影響を与え続けている。その忠義と武勇の物語は、永遠に語り継がれるだろう。