人物像と出生
張飛(167年? - 221年)は、後漢末期から三国時代の武将。字は益徳(史書では益徳、演義では翼徳)。幽州涿郡の出身で、劉備・関羽と共に蜀漢建国の中核を担った。
若き日から並外れた膂力と武勇を誇り、程普は関羽と張飛を評して「万人の敵」と称した。しかし張飛は単なる猛将ではなく、瓦口関での張郃撃破に見られるように、地形を利用した戦術と確かな統率力も併せ持つ名将だった。
飛雄壮威猛、亜於関羽(飛は雄壮威猛にして、関羽に次ぐ)— 陳寿『三国志』
劉備との出会い
184年、黄巾の乱が勃発。張飛は23歳前後で関羽と共に劉備の義勇軍結成に参加した。家産を売却して軍資金を提供し、500人規模の部隊編成を可能にした。この決断が、後の蜀漢建国への第一歩となった。
- 資金提供: 家産を売却して軍資金を調達。500人の兵を集める
- 武器調達: 蛇矛(じゃぼう)と呼ばれる長槍を愛用
- 初期の戦功: 黄巾賊の程遠志、高昇を討ち取る
流浪時代の活躍(184-208年)
劉備に従って各地を転戦し、数々の武功を立てた。特に徐州時代の呂布との戦いでは、その武勇が遺憾なく発揮された。
徐州での戦い
196年、劉備が袁術討伐に出陣した隙に、張飛は徐州を任されたが、酒に酔って曹豹と争い、呂布に城を奪われる失態を演じた。
その後、小沛で呂布と対峙。呂布配下の猛将たちと互角以上に渡り合い、その武名を轟かせた。
年 | 戦い | 相手 | 結果 |
---|---|---|---|
196年 | 小沛の戦い | 呂布 | 百合以上打ち合い引き分け |
197年 | 下邳の戦い | 高順 | 激戦の末撤退 |
198年 | 白門楼の戦い | 呂布軍 | 曹操と協力し勝利 |
曹操配下時代
198年から200年まで、劉備と共に曹操に仕えた。この間、袁術討伐戦などに参加したが、常に劉備、関羽と行動を共にした。
荊州時代
201年、劉備と共に荊州の劉表の下に身を寄せる。新野に駐屯し、曹操軍の南下に備えた。
- 博望坡の戦い(202年): 夏侯惇、于禁を撃退
- 長坂橋の戦い(208年): 単騎で曹操軍を食い止める
長坂橋の仁王立ち(208年)
208年、当陽長坂で劉備軍が曹操の精鋭騎兵に追撃され壊滅的打撃を受けた。この絶体絶命の危機に、張飛はわずか二十騎を率いて長坂橋に立ちはだかり、単身で五千の曹操軍を食い止めた。この奇跡的な防衛戦は、三国志史上最も劇的な場面の一つとして語り継がれている。
身は張益徳なり!誰か来たりて死を決せん!— 張飛の大喝
戦術的意義
張飛は巧妙な心理戦を展開した。馬の尾に樹枝を結び付けて土煙を立て、後方に大軍が控えているかのような演出を施した。さらに橋の後ろに伏兵がいるかのような布陣を取り、曹操軍に「劉備の奇計か」と疑念を抱かせた。これは張飛の武勇だけでなく、知略の高さを示す好例である。
- 橋を守る地の利: 狭い橋では大軍の利点が活かせない
- 土煙を立てる: 馬の尾に樹枝を結び付け、伏兵がいるように見せかけた
- 心理的威圧: その威風と大音声で敵を萎縮させた
荊州統治時代(208-214年)
赤壁の戦い後、張飛は宜都太守に任命され、荊州西部の統治を担当した。武勇だけでなく、行政手腕も発揮した。
軍事的功績
荊州南部四郡の平定に参加し、その後は長江沿いの要衝を守備。呉との境界地帯の安定に貢献した。
年 | 任務 | 成果 |
---|---|---|
209年 | 武陵・零陵平定 | 金旋、劉度を降伏させる |
210年 | 周瑜との対峙 | 長江上流を確保 |
211-213年 | 荊州防衛 | 曹操・孫権の侵攻を防ぐ |
益州攻略戦(214年)
214年、膠着状態に陥った益州攻略戦に、張飛は諸葛亮と共に援軍として参戦。別動隊を率いて快進撃を続け、成都包囲に大きく貢献した。
江州・巴郡の攻略
張飛は長江を遡上し、江州(現在の重慶)を攻略。その後、巴郡一帯を平定し、劉璋軍の抵抗を各個撃破した。
- 巴郡太守・厳顔との戦い: 老将厳顔を生け捕りにし、その忠義に感服して釈放
- 進軍速度: わずか数十日で数城を攻略
- 成都包囲: 劉備本隊と合流し、劉璋を降伏させる
断頭将軍あるも、降将軍なし— 厳顔
巴西太守時代
益州平定後、張飛は巴西太守に任命された。215年、曹操配下の張郃が漢中から巴西に侵攻してきた際、これを撃退する大功を立てた。
瓦口関の戦いで、張飛は地形を巧みに利用した伏兵戦術で張郃軍を大破。魏の名将・張郃も張飛の用兵を称賛したという。
漢中攻防戦(217-219年)
217年から219年にかけての漢中争奪戦において、張飛は主力部隊の一翼を担い、数々の武功を立てた。
主要な戦闘
戦闘 | 相手 | 戦果 |
---|---|---|
下弁の戦い | 曹洪、曹休 | 撃退に成功 |
固山の戦い | 張郃 | 再び張郃を破る |
定軍山の戦い | 夏侯淵軍 | 側面支援で勝利に貢献 |
漢中平定後、劉備が漢中王に即位すると、張飛は右将軍に昇進。関羽、馬超、黄忠と共に四方将軍の一人となった。
晩年と最期(220-221年)
220年、曹操が死去し曹丕が魏を建国。221年、劉備が蜀漢皇帝に即位すると、張飛は車騎将軍、司隷校尉に昇進し、西郷侯に封じられた。
部下との関係
張飛は士大夫には礼を尽くしたが、兵卒には厳しく当たることが多かった。劉備はしばしばこれを諫めたが、張飛は改めなかった。
卿刑殺既過差、又日鞭撾健児、而令在左右、此取禍之道也(君は刑罰が過酷で、日々兵士を鞭打ち、しかも側近に置いている。これは災いを招く道だ)— 劉備の諫言
暗殺
221年、関羽の仇討ちのため呉征討の準備中、部将の范強(范疆)と張達に暗殺された。享年55歳前後と推定される。
劉備は張飛の死を聞いて「ああ、飛が死んだか」と嘆息した。張飛の長子・張苞が後を継いだが、若くして死去。次子・張紹が侯爵を継承した。
武勇と戦術
張飛は単なる猛将ではなく、優れた戦術家でもあった。地形を利用した伏兵戦術や、心理戦にも長けていた。
戦闘スタイル
- 武器: 丈八蛇矛(約4m超の長槍)を愛用。その長大な得物を自在に操った
- 騎馬戦: 騎馬での一騎討ちを得意とし、多くの名将と互角以上に戦った
- 指揮能力: 最大で数万の兵を統率。巴西や漢中での戦いで指揮官として勝利
- 奇襲戦術: 敵の意表を突く奇襲を得意とし、寡兵で大軍を破ることも
著名な一騎討ち
相手 | 時期 | 結果 | 備考 |
---|---|---|---|
呂布 | 196-198年 | 引き分け | 三英戦呂布の一人 |
紀霊 | 196年 | 優勢 | 袁術配下の大将 |
夏侯惇 | 202年 | 引き分け | 博望坡の戦い |
張郃 | 215年 | 勝利 | 瓦口関の戦い |
許褚 | 217年 | 引き分け | 下弁の戦い |
人物像と評価
張飛は豪快で直情的な性格として知られるが、実際は複雑な人物像を持っていた。
性格と特徴
- 忠義心: 劉備への忠誠は終生変わらず。関羽と共に劉備を支え続けた
- 勇猛果敢: どんな強敵にも怯まず立ち向かう勇気
- 直情径行: 思ったことをすぐ行動に移す性格。これが長所にも短所にもなった
- 酒好き: 酒を好み、酔うと粗暴になることがあった
- 文化的素養: 書画を嗜み、特に美人画と草書を得意とした
人間関係
張飛は身分の高い者には礼儀正しく接したが、下級兵士には厳しく当たることが多かった。
- 劉備との関係: 「恩は兄弟の如し」と称される深い信頼関係
- 関羽との関係: 共に劉備を支える盟友。性格は対照的だが互いに認め合っていた
- 諸葛亮との関係: 当初は反発したが、後に諸葛亮の才能を認め協力
- 部下との関係: 厳顔のような名将は評価したが、一般兵士には過酷
史実と演義の比較
『三国志演義』では張飛は粗野で単純な猛将として描かれるが、史実はより複雑な人物だった。
項目 | 史実 | 演義 |
---|---|---|
容貌 | 記載なし | 豹頭環眼、燕頷虎鬚 |
出身 | 地方豪族の可能性 | 豚肉商人 |
性格 | 君子を敬い小人を恤まず | 粗野で単純な酒豪 |
文化的素養 | 書画を嗜む | 描写なし |
長坂橋 | 橋を守り敵を威嚇 | 大喝で夏侯傑が落馬 |
督郵事件 | 劉備が鞭打つ | 張飛が鞭打つ |
厳顔との対決 | 義を認めて釈放(華陽国志) | より劇的に描写 |
馬超との一騎討ち | 記録なし | 百合以上の激闘 |
最期 | 部下に暗殺される | 同様だがより詳細に描写 |
史実の張飛像
陳寿は張飛を「雄壮威猛」と評し、関羽に次ぐ勇将とした。同時に「愛敬君子而不恤小人」という性格的欠点も指摘している。
また、張飛の娘二人が後に劉禅の皇后となったことから、張飛の家系は蜀漢の外戚として重要な地位を占めた。
張飛の遺産と影響
張飛は後世、勇猛さの代名詞として中国文化に深く根付いた。その影響は文学、演劇、民間信仰など多岐にわたる。
家系と子孫
張飛の死後、その血脈は蜀漢の皇室と深く結びついた。
- 張苞: 長子。早世したため詳細不明
- 張紹: 次子。西郷侯を継承。蜀漢滅亡時に降伏
- 長女(敬哀皇后): 劉禅の最初の皇后。237年崩御
- 次女(張皇后): 劉禅の二番目の皇后。姉の死後に入内
文化的影響
張飛は中国の民間信仰で武神として祀られ、特に商人や肉屋の守護神とされる。
- 京劇: 「浄」(隈取の荒々しい役)の代表的な役柄
- 関帝廟: 関羽と共に祀られることが多い
- 民間故事: 「張飛賣肉」など多くの民話の主人公
- 慣用句: 「張飛穿針」(不器用な人が細かい仕事をする)などの成語
現代的評価
現代では張飛を単なる猛将ではなく、優れた軍事指揮官として再評価する動きがある。
- 戦術的才能: 地形利用や伏兵戦術など、知略も兼ね備えていた
- 統治能力: 巴西太守として善政を敷いた記録がある
- 文化人としての側面: 書画の才能は当時の士大夫にも劣らなかった
- リーダーシップの教訓: 部下への接し方の失敗は現代の組織論でも教訓となる
張飛の生涯は、卓越した能力を持ちながら、性格的欠点によって悲劇的な最期を迎えた英雄の物語である。その教訓は、現代においても人間関係やリーダーシップを考える上で示唆に富んでいる。