袁術 - 偽帝の野望、蜂蜜水に死す

袁術 - 偽帝の野望、蜂蜜水に死す

袁術(?-199年)は、後漢末期の群雄の一人で、四世三公の名門・袁氏の出身。袁紹の従弟として生まれ、董卓討伐連合にも参加したが、後に野心を露わにして197年に皇帝を自称し「仲王朝」を建国した。しかし、その暴政により諸侯から孤立し、最期は蜂蜜水を求めながら悶死したという悲惨な最期を遂げた。三国時代最初の皇帝僭称者として記録されている。

名門袁氏の出身

袁術は「四世三公」と呼ばれる名門袁氏の出身で、高祖父の袁安から四代にわたって三公(太尉・司徒・司空)を輩出した家系だった。袁紹は従兄(または従弟)にあたる。

史実: 袁氏は後漢において最も権勢を誇った士大夫の家系で、門生故吏(弟子や部下)が全国に散らばり、「袁門」と呼ばれる一大勢力を形成していた。

袁紹との確執

袁術と袁紹は同じ袁氏でありながら、早くから対立していた。これは袁術が嫡流、袁紹が庶流(養子)だったことが原因とされる。

群英録によれば、袁術は常に袁紹を「家奴」と呼んで軽蔑していた

この兄弟間の確執は、後に反董卓連合の分裂や群雄割拠時代の複雑な対立構造に大きな影響を与えた。

反董卓連合への参加

190年、董卓の暴政に憤激した関東の諸侯が連合軍を結成すると、袁術は後将軍として参加した。南陽を基盤とし、豊富な兵糧で連合軍を支援した。

魯陽の糧秣問題

連合軍の盟主となった袁紹に対し、袁術は魯陽で兵糧の補給を拒否。この事件により連合軍は分裂し、董卓討伐は失敗に終わった。

史実: この時の兵糧拒否について、袁術は袁紹の専横を批判し、「偽盟主」と呼んだ。個人的な確執が大義を損なった典型例とされる。

勢力拡大

連合軍解散後、袁術は南陽・揚州を基盤として独立勢力を築き上げた。特に江南地方の豊かな経済力を背景に、一時期は強大な軍事力を保持した。

  • 191年:南陽太守に任じられる
  • 194年:揚州刺史となる
  • 195年:寿春に拠点を移す
  • 196年:孫策と同盟関係を結ぶ

皇帝僭称

197年、袁術は突如として皇帝を自称し、国号を「仲」とした。これは三国時代で最初の皇帝僭称であり、各地の群雄から激しい反発を受けた。

玉璽の入手

袁術が皇帝を名乗る根拠としたのは、孫堅の遺族から入手したとされる伝国璽(玉璽)だった。しかし、この玉璽の真偽は疑問視されている。

天命すでに我に在り、何ぞ皇帝と号さざるや
演義: 演義では孫堅が洛陽の井戸で玉璽を発見し、後に孫策が袁術に質入れしたとされるが、正史では玉璽入手の経緯は不明確。

仲王朝の建国

袁術は国号を「仲」とし、元号を「建昌」と定めた。しかし、この僭称は正統性を欠き、諸侯からの支持を得られなかった。

  • 国号:仲(袁術が「袁」の字を分解した説あり)
  • 元号:建昌
  • 都:寿春(現在の安徽省淮南市)
  • 支配地域:揚州・豫州の一部
史実: 袁術の皇帝僭称は、曹操による「奉天子以令不臣」(天子を奉じて臣下でない者に令する)政策の正当性を逆に高める結果となった。

暴政と孤立

皇帝となった袁術は贅沢な宮廷生活を送り、重税を課して民を苦しめた。また、周辺の群雄との関係も悪化し、次第に孤立していった。

奢侈な生活

袁術は皇帝となると、数千人の後宮を抱え、金銀財宝で身を飾った。その贅沢ぶりは当時の人々の批判を浴びた。

史実: 『三国志』によれば、袁術は「妻妾数百、皆服綺縠、余甘之物嘗先諸軍」(妻妾数百人、皆が美しい衣服を着て、美味なる食べ物は軍よりも先に味わった)とある。

苛酷な徴税

宮廷の維持費と軍事費を賄うため、袁術は領民に重税を課した。これにより各地で反乱が頻発し、統治基盤が不安定化した。

珠玉を食えず、錦繍を衣られず

軍事的失敗

袁術は各地で軍事行動を起こしたが、ことごとく失敗。特に劉備や曹操との戦いで連敗し、勢力を急速に衰退させた。

対劉備戦

袁術は徐州の劉備を攻撃したが、劉備の巧妙な戦術と民衆の支持により敗退を重ねた。

  • 196年:劉備の盱眙攻略により淮水流域を失う
  • 197年:再度徐州侵攻を試みるも失敗
  • 198年:最後の徐州攻撃も劉備に阻止される

対曹操戦

曹操は袁術の皇帝僭称を断じて認めず、198年に大規模な討伐軍を派遣。袁術軍は各地で敗退した。

史実: 曹操は袁術討伐の際、「奉天子以征四方」(天子を奉じて四方を征す)の大義名分を掲げ、正統性の違いを明確にした。

最期と蜂蜜水の逸話

199年、連戦連敗で追い詰められた袁術は、庶兄の袁紹を頼ろうとしたが、途中で病死した。その死に際の逸話は後世まで語り継がれている。

蜂蜜水の最期

病床の袁術は最期に蜂蜜水を求めたが、家臣は「蜂蜜がございません」と答えた。袁術は「袁公路至此為止邪!」(袁公路、ついにここまでか!)と嘆いて息絶えたという。

袁公路至此為止邪!

かつて贅沢の限りを尽くした皇帝が、最期に蜂蜜水一杯さえ口にできなかった皮肉は、権力の無常を象徴する逸話として有名になった。

仲王朝の滅亡

袁術の死により、わずか2年間で「仲王朝」は滅亡した。その後、残存勢力は各地に散らばり、三国鼎立の情勢がより鮮明になった。

史実: 袁術の玉璽は、死後に徐璆を通じて曹操の手に渡ったとされる。これにより曹操の正統性がさらに強化された。

人物評価

袁術は名門出身の優位を活かせず、むしろそれが仇となって失敗した典型的な人物とされる。しかし、一方で義理人情に厚い面も記録されている。

批判的評価

  • 早計な皇帝僭称による正統性の欠如
  • 奢侈な生活による民心の離反
  • 戦略的思考の欠如
  • 部下に対する配慮不足
  • 兄弟との確執による勢力分散
袁術奢淫放恣,榮不終日

評価すべき点

一方で、袁術には義理を重んじる一面もあった。孫策との関係や、部下の讒言を退けたエピソードなどが記録されている。

  • 孫策への兵の貸与と信頼関係
  • 張勲への厚い信頼
  • 反董卓連合への積極的参加
  • 名門としての矜持

歴史的意義

袁術の皇帝僭称は失敗に終わったが、これが後の曹丕の皇帝即位や三国分立に与えた影響は大きい。

史実: 袁術の皇帝僭称は、漢朝の権威失墜を決定づけた象徴的事件として評価される。これにより「天下三分」の思想が現実味を帯びることになった。

また、その失敗例は後の群雄たちに教訓を与え、より慎重な統一戦略の必要性を示した。