出自と初期の活動
典韋は陳留郡己吾県の出身で、若い頃から怪力で知られていた。地元では「悪来」の異名で呼ばれ、その武勇は周辺に轟いていた。
夏侯惇配下時代
最初は夏侯惇の配下として戦場で活躍。その際の武功が曹操の目に留まり、直接配下に迎えられることとなった。
夏侯惇も典韋の武勇を高く評価し、「此非常人也」(これは尋常な人ではない)と曹操に推薦したという。
曹操への仕官と活躍
曹操の直属となった典韋は、主君の護衛として常に側に仕えた。その忠義と武勇は曹操軍の中でも群を抜いており、「古之悪来」の称号を得た。
親衛隊長としての任務
典韋は曹操の身辺警護を一手に引き受け、昼夜を問わず主君を守り続けた。その献身ぶりは他の部下たちの模範となった。
戦場での武功
戦場では大戟を振るい、敵兵を薙ぎ払った。その豪勇ぶりは敵味方を問わず恐れられ、典韋が現れると敵軍は戦意を失ったと記録されている。
- 濮陽の戦いでは呂布軍を蹴散らす
- 宛城攻略では先頭に立って城門を破る
- 数々の戦いで一騎当千の活躍を見せる
宛城の戦いと最期
197年、曹操が張繡討伐のため宛城に向かった際、典韋は運命の時を迎えることになる。この戦いが彼の生涯最後の戦いとなった。
張繡の反乱
張繍は一度降伏したものの、曹操が張済の未亡人を妾にしたことに激怒し、夜襲を仕掛けた。曹操は不意を突かれ、絶体絶命の危機に陥った。
壮絶な最期
典韋は曹操を逃がすため、手勢わずかな兵と共に張繍軍の大軍を相手に最後の戦いを挑んだ。武器が尽きると素手で戦い続け、全身に数十の矢を受けながらも敵を近づけなかった。
韋手捉両人撃殺之、餘皆不敢前
この記述は「典韋が素手で二人の敵兵を捕らえて撲殺すると、残りの敵兵は誰も近づこうとしなかった」という意味で、その最期の凄まじさを物語っている。
人物像と後世への影響
典韋は純粋な武人として、主君への絶対的忠義を貫いた。その豪勇と忠節は、後世の武将たちの理想像となった。
性格と人となり
- 豪快で気さくな性格
- 酒を愛し、大酒飲みとして有名
- 部下思いで、兵士たちからも慕われた
- 曹操への忠義は絶対的で、私心がなかった
戦場では鬼神のごとき勇猛さを見せたが、日常では温厚で部下想いの人物だったと伝えられている。
曹操の哀悼
典韋の死を知った曹操は慟哭し、「吾失典韋、使賊知吾無大将也」(私が典韋を失ったことで、敵は私に大将がいないことを知るだろう)と嘆いた。
史書での評価
『三国志』では典韋を「壮猛」と評し、その武勇と忠義を高く評価している。特に宛城での最期の戦いぶりは、中国史上に残る忠臣の鑑として記録されている。
典韋容貌魁偉、旅力過人、有志節
この評価は「典韋は容貌が立派で、怪力で人並み外れており、志と節操を持っていた」という意味で、武力だけでなく人格も評価されていたことがわかる。
後世文学への影響
『三国志演義』では典韋の武勇がさらに劇的に描かれ、民衆の英雄として親しまれるようになった。特に宛城での壮絶な最期は、多くの人々に感動を与えた。