第五次北伐の開始
234年2月、諸葛亮は五度目となる北伐を開始した。これまでの経験を活かし、兵站の確保により慎重な戦略で魏との決戦に臨んだ。
五丈原は渭水南岸の高台で、ここに陣を敷くことで魏軍の南下を阻止し、関中への侵攻路を確保する戦略的要地であった。
司馬懿の持久戦略
司馬懿は諸葛亮の軍事的才能を熟知しており、直接対決を避けて持久戦に持ち込む戦略を採用した。蜀軍の兵站線の長さを利用する作戦であった。
魏軍は諸葛亮の挑発に乗らず、堅固な陣地に籠もって蜀軍の消耗を待った。この忍耐強い戦略が最終的に成功を収めることになる。
兵站線への攻撃
司馬懿は蜀軍の補給路を狙い撃ちする戦術を採用した。五丈原から蜀の本土までは遠く、食料や武器の輸送は困難を極めていた。
諸葛亮の病状悪化
長期間の軍事活動と過度の労働により、諸葛亮の健康は徐々に悪化していった。234年夏頃から病状が顕著になり、軍の指揮にも支障をきたし始めた。
諸葛亮は自らの死期を悟りながらも、北伐の継続と蜀漢の未来について心を砕いていた。後継者の育成と戦略の引き継ぎが急務となった。
後継者問題
諸葛亮は姜維を軍事面での後継者として育成し、楊儀を行政面での後継者と位置づけていた。しかし両者の性格や能力には大きな違いがあった。
諸葛亮の最期
234年8月、諸葛亮は五丈原の陣中で54歳の生涯を閉じた。彼の死は蜀軍全体に大きな衝撃を与え、北伐軍は撤退を決定せざるを得なくなった。
諸葛亮の死は秘匿され、蜀軍は整然とした撤退を行った。司馬懿が追撃しようとした際、諸葛亮の木像が現れると魏軍は恐れて後退したという。
木像の計略
蜀軍撤退時、司馬懿は追撃を試みたが、諸葛亮の木像が現れると「孔明まだ生きているのか」と驚いて退却した。これが「死せる孔明、生ける仲達を走らす」の故事となった。
戦いの余波
諸葛亮の死後、蜀軍は姜維の指揮の下で撤退を開始した。魏延は独自の作戦を主張したが受け入れられず、最終的に処刑される結果となった。
五丈原の戦いの終結により、蜀漢の北伐時代は完全に幕を閉じた。以後、蜀漢は内政に専念し、魏との積極的な戦いは行われなくなった。