官渡の戦い - 曹操が袁紹を破った天下分け目の決戦

官渡の戦い - 曹操が袁紹を破った天下分け目の決戦

建安5年(200年)、中原の覇権を巡って曹操と袁紹が激突した官渡の戦い。圧倒的な兵力差にもかかわらず、曹操は巧みな戦術と烏巣襲撃により勝利を収め、華北統一への道を開いた。

戦いの背景

建安5年(200年)、北方の覇者・袁紹と中原の新興勢力・曹操の間で、天下の覇権を巡る決戦が始まろうとしていた。

史実: 袁紹は冀州・青州・并州・幽州の四州を支配し、当時最大の勢力を誇っていた。一方の曹操は、許昌を本拠地として中原に勢力を築いていたが、その兵力は袁紹の五分の一に過ぎなかった。

誰もが袁紹の勝利を予想する中、曹操は巧みな防御戦術と大胆な奇襲作戦により、この圧倒的な劣勢を覆すことになる。

白馬・延津の戦い

戦いの序盤、袁紹は大将・顏良を白馬に派遣した。曹操は荀攸の献策により、延津への陽動を行い、顏良の注意を引きつけた。

演義: 演義では関羽が顏良を討ち取る場面が有名だが、史実でも関羽が顏良を斬ったことは記録されている。ただし、演義のような劇的な一騎討ちではなかった可能性が高い。

続いて袁紹は文醜を派遣したが、これも曹操軍に撃破された。序盤で二人の名将を失った袁紹軍の士気は大きく低下した。

烏巣襲撃 - 戦いの転換点

数ヶ月の膠着状態の後、袁紹の謀臣・許攸が曹操に投降した。許攸は袁紹軍の食糧庫・烏巣の位置を曹操に教えた。

史実: 曹操は自ら5000の精鋭を率いて夜襲を決行。淳于瓊が守る烏巣を急襲し、袁紹軍の食糧庫を焼き払った。この奇襲により、袁紹軍は補給を完全に断たれた。

補給を失った袁紹軍は総崩れとなり、張郃・高覧らの武将も曹操に降伏。袁紹は僅かな手勢と共に河北へ逃れた。

戦後の影響

官渡の戦いの勝利により、曹操は華北統一への道を開いた。一方、大敗を喫した袁紹は失意のうちに病死し、その勢力は息子たちの内紛により急速に衰退した。

この戦いは、劣勢を覆した見事な戦術的勝利として、赤壁の戦い、夷陵の戦いと並んで三国時代の三大決戦の一つに数えられている。