歴史的背景
建安12年(207年)、劉備は荊州の劉表の客将として新野に駐屯していた。曹操の南下が迫る中、劉備は優れた軍師を求めていた。この時、水鏡先生こと司馬徽から「伏龍・鳳雛のいずれかを得れば天下を安んずることができる」という言葉を聞いていた。
諸葛亮は当時27歳の若者で、南陽の隆中で晴耕雨読の生活を送っていた。しかし、その才能は「臥龍」と称され、知る人ぞ知る存在であった。
第一回目の訪問
劉備は関羽と張飛を伴い、初めて隆中の草庵を訪れた。しかし、諸葛亮は外出中で会うことができなかった。
大賢を訪ねるのに、一度で会えないのは当然のこと。必ずまた参ります。— 劉備(三国志演義)
張飛の反応
張飛は劉備の行動に不満を持った。皇叔と呼ばれる劉備が、一介の書生を三度も訪ねることに納得がいかなかったのである。
兄者は皇叔の身でありながら、なぜ一書生にそこまでへりくだるのか。私が行って引っ張ってきましょう。— 張飛(三国志演義)
第二回目の訪問
雪の降る寒い日、劉備は再び隆中を訪れた。今度は諸葛亮の弟の諸葛均に会うことができたが、諸葛亮本人は友人を訪ねて留守だった。
- 劉備の忍耐: 二度の空振りにも関わらず、劉備の決意は揺るがなかった
- 従者の不満: 関羽と張飛の不満は高まるばかりだった
- 評判の広がり: 劉備の誠意は次第に地域に知れ渡っていった
第三回目の訪問 - 歴史的会見
建安12年の春、劉備は三度目の訪問を決行した。この日、ついに諸葛亮は草庵にいた。しかし昼寝をしていたため、劉備は起きるまで門外で待ち続けた。
隆中対 - 天下三分の計
諸葛亮は劉備に対し、後に「隆中対」と呼ばれる戦略を説いた。これは天下を三分し、その一角を占めることで曹操に対抗するという壮大な構想だった。
要点 | 内容 | 意義 |
---|---|---|
現状分析 | 曹操は北方統一、孫権は江東確立 | 二強の間で生き残る道を探る |
荊州・益州 | まず荊州を取り、次に益州を得る | 地理的要衝を押さえる |
天下三分 | 魏・呉・蜀の三国鼎立 | 均衡状態を作り出す |
北伐の時機 | 天下に変があれば北伐 | 最終的な統一への道筋 |
将軍は帝室の胄にして、信義は四海に著わる。英雄を総攬し、思賢は渇するが如し。— 諸葛亮『隆中対』
諸葛亮の決断
劉備の三度にわたる訪問と、その誠意に打たれた諸葛亮は、ついに出仕を決意した。この時、諸葛亮27歳、劉備47歳であった。
- 年齢差20歳: 劉備は諸葛亮を兄事し、「孤之有孔明、猶魚之有水也」と評した
- 水魚の交わり: 劉備と諸葛亮の関係を表す故事成語となった
- 終生の忠誠: 諸葛亮は劉備の死後も蜀漢に尽くし続けた
その後の展開
諸葛亮を得た劉備は、その後の人生が大きく変わった。赤壁の戦いでは諸葛亮の外交手腕により孫権と同盟を結び、曹操の大軍を破ることに成功した。
- 赤壁の戦い(208年): 諸葛亮の同盟交渉により孫劉連合が成立、曹操軍を大破
- 荊州南部占領: 隆中対の第一段階を実現
- 益州平定(214年): 劉璋から益州を奪い、蜀漢建国の基礎を築く
- 漢中王即位(219年): 漢中を得て王位に就く
- 蜀漢建国(221年): 劉備が皇帝に即位、諸葛亮は丞相となる
文化的影響と教訓
「三顧の礼」は、中国文化において人材を求める際の理想的な態度を示す故事成語となった。日本でも「三顧の礼を尽くす」という表現で広く知られている。
- 礼を尽くす重要性: 才能ある人材を得るには、身分や地位に関わらず礼を尽くすべきである
- 忍耐の美徳: 一度や二度の失敗で諦めず、誠意を持って接し続けることの大切さ
- 知遇に報いる: 諸葛亮の生涯にわたる忠誠は、劉備の礼に対する報いであった
- 現代への応用: 企業の人材採用やヘッドハンティングにも通じる教訓
士は己を知る者の為に死す— 中国の格言
類似の故事
中国史には、三顧の礼に類似した人材登用の美談が数多く存在する。
故事 | 主人公 | 結果 |
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蕭何の韓信推挙 | 劉邦・韓信 | 韓信を大将軍に任命し、漢王朝建国 |
燕昭王の黄金台 | 燕昭王 | 賢者を集めて燕を強国に |
斉桓公と管仲 | 斉桓公・管仲 | 管仲を宰相とし、斉を覇者に |
秦穆公と百里奚 | 秦穆公・百里奚 | 五羖大夫として重用、秦を強国に |